朝。翡翠から鞄を受け取り、屋敷の外に出る。冷たい風が肌を刺す。吐く息が
白い。

「今朝は随分寒いみたいだから、見送りは玄関までで良いよ。」

 門まで見送りに行こうとする翡翠を玄関に留め、一人学校へ歩き出す。
 
「畏まりました。行ってらっしゃいませ志貴様」

 触れるだけで冷たさを通り越し、痛みさえ感じる門を開けもう通い慣れた道を
歩く。人通りもまばらな朝の道路。雀の鳴き声がどこからか聞こえてきた。
空は快晴。雲一つ無い青空と裏腹に、心はどんよりと曇っている。

「まさかこの歳になってまで、追試を受けるハメになるとは思わなかったな」

 歩きながら一人呟く。自分こと遠野志貴はこの貴重な冬休みに、何の因果か追
試を受ける羽目になっていた。

「やっぱアレがまずかったかな」

 有彦に誘われて徹夜マージャンをやった次の日が期末試験開始日だと言う事を
すっかり忘れていたせいで、一夜漬けができる筈も無く見事に赤点を取ってしま
ったのである。
その元凶は選択肢問題で奇跡の全問正解を成し遂げた為に、のうのうと追試を免
れている。

「はぁ。これさえ無ければ琥珀さんとピクニックにでも行けたのにな」

 陽射しは柔らかく、凍てつく寒さを和らげてくれる。溜息も白い冬の道。割烹
着の少女を想う。追試と聞いた時に屋敷の中で一番あからさまに落胆した様子を
思い出す。もう人形の様な少女はそこにはいなかった。
いなかったのだが……その様子を見ていると軽い罪悪感が浮かんだ。琥珀さんは
この俺の冬休みを心待ちにしていたらしい。

「何か補償でも考えないとなぁ……」

 頭に浮かぶのは試験とは関係無い事ばかり。取りとめの無い思考のまま歩く事
20分。学校に到着。流石に冬休みとあって、グラウンドで運動系の部活が練習
をしている以外、生徒の姿は殆ど見かけない。
校門をくぐり、足早に職員室に向かう。休暇中と言う事も相まり、職員室以外一
切合財暖房の効いていない学校は冷え切っていた。特に廊下は殺人的な寒さにな
っている。

「失礼します。教室のカギ借りに来ました」

 ノックをして職員室に入る。暖房の効いた暖かい空間。教師の姿はまばらなの
でここで試験を受けさせてくれる方がまだ良かったかな、などと考えてしまう。
通り過ぎる教師に一礼。壁のフックから鍵を取り、居心地の良さそうな職員室か
ら自分の教室へ向かう。
 誰もいない教室はほのかに薄暗く、いつもより広く見えた。一瞬、あの時の深
夜の教室を思い出すがそれを振り払い、席に着く。鞄を机の横のフックに掛け、
中から教科書とノートを取り出し眺める。今更何かする訳でもなく、只の時間潰
しとも言えた。
中々、追試の担当はやって来ない。ふと有彦の机を見ると、冬休みに入ったとい
うのに机の中身はぎっしりと詰まっていた。そうこうしていると後藤教諭が入っ
てくる。

「何だ。今回の追試はお前一人か、遠野」

「はぁ。何かそうみたいです」

 我ながら気の抜けた返事を返し、後ろ向きに配られたプリントを机に伏せてお
く。どうせマンツーマンな環境なのだから配ってすぐ始めるという気の利いた方
法は無いものかと思案する。

「こんな冬休みにたった一人で追試を受けに来るとはなぁ。全く。今回は乾が赤
点を取っていなかったからと安心していたらお前が追試か。こんな寒い教室でや
りたくは無いわなぁ。先生だって休みなんだからわざわざ……」

 何やらぼやいている後藤教諭を尻目に、追試開始のチャイムが鳴る。問題を確
認すると期末試験と同じ内容だった。手抜きなのか仕様なのかは分からないが一
応ありがたかった。


                ※※※


「あー。これに懲りたらもう赤点なんか取るなよ」

「はい。お手数かけました」

「遠野は普段の成績は良いんだから、継続して勉強に力を入れていればそのうち
良い大学に入れるんだぞ?」

「あー……。進学とかその辺はまだ考えています」

「そうか……。まぁ将来に関わる事だ。しっかり考えておけよ。じゃあ、寄り道
とかしないで真っ直ぐ帰れよー」

 終了のチャイムが鳴ると後藤教諭は答案を回収して帰っていった。空腹感を感
じたので教室を施錠し、学食へ向かうものの今日は冬休み真っ只中。学食が開い
ているはずも無かった。当然、購買も閉店中。

「参ったなぁ。こんな日じゃあ先輩もいないだろうし……」

 念のため見てみた茶道部室には、やはりお目当ての人はいなかった。仕方なく
大通りにある大手ハンバーガーチェーンで昼食を取ろうとした所、和服姿の人物
が風呂敷包みを持って階段を上って来た。

「こ、琥珀さん!?」

「あ。志貴さん。ここにいましたか」

 笑顔でこっちに歩いてくる琥珀さん。でも何故? 上手く言葉が出てこないうち
に琥珀さんは目の前までやって来た。

「琥珀さん。何でこんな所に?」

「今日は志貴さん、追試を受けに来ているじゃないですか。でも今日はお休みで
すよね? 食堂とかがお休みで志貴さんがお腹を空かせているといけないと思って
お弁当を作ってきました」

 ああそうか――彼女はわざわざこの寒い中、学校に弁当を届けに来てくれたの
か。それを確認しただけで、心が、体が、温かくなっていくのが実感できた。

「ついでに、志貴さんが通っている学校が普段どうなっているかを見てみたかっ
たって言うのもあって、後の事は翡翠ちゃんに頼んじゃってやって来たんですけ
どね」

 いたずらっぽく笑う琥珀さん。昼の学校に来る、と言う事でややはしゃいでい
るのだろう。

「じゃあ、これどこで食べる?屋上か中庭か教室が――って、中庭はちょっとま
ずいかな。少ないとは言え生徒も少しはいるし」

「志貴さんと同じような、追試の生徒さんですか?」

「こ、琥珀さん?!」

 思わず声が裏返ってしまう。琥珀さんはくすくすと笑いながら

「冗談ですよ。では志貴さんの教室に参りましょうか」

「人が悪いです……。こんな所でお返しされるとは」

 二人で並んで教室へ向かう。あの時は夜の学校で一緒にいたが、こうして昼間
に一緒に歩いているとまた違った感慨が沸いてくる。屋敷で見るのとはまた違っ
た琥珀さんがそこにはいた。
やがて教室に辿り着く。窓から念のため教室の中を覗いてみるがやはり誰もいな
い。鍵を開けてドアをスライドさせると、緊張によるものなのか先ほどまでより
も音が大きく感じられた。

「ここが志貴さんの教室ですか。何かあまり他の教室と大差ない感じですね」

「まぁ、冬休みだから大抵の私物はみんな持って帰っているからね。まぁ……中
には放置しっぱなしのヤツもいるにはいるんだけど」

 つい有彦の机に目が行ってしまうが意識の外へ出す事にした。

「?」

「いや。何でもない。それより適当な椅子に掛けててくれ」

「それじゃあ、志貴さんの席はどの辺りですか?」

「えっと、とりあえず今の所はそこの窓際かな」

 席の場所を示すと琥珀さんはいそいそとその前の席に座った。

「じゃあ、お弁当をいただきましょうか」

「え――」

「ほら。良くあるじゃないですか。こうやってお昼休みに向かい合ってお弁当を
食べるというのが」

 要するに琥珀さんは学園ドラマなどで良くあるような事がやってみたいらし
い。学食でもなく、教室で弁当を食べる連中の中で、一つの机に向かい合って一緒
に弁当を食べるのもそう多くは無い。中学生くらいまではお互い意識せずに行って
いる事でも高校になれば気恥ずかしさも出てくる。
新鮮だった。教室で一緒に食べると言う事それ自体が。琥珀さんと一緒に弁当を
食べると言う事が。高鳴る心を押さえて席に着く。

「ああ。じゃあ、いただきます」

「はい。どうぞめしあがれ」

 重箱の蓋を開ける。筑前煮、玉子焼き、牛肉のしぐれ煮、ブロッコリーなどが
並び、下の段には俵型にしたご飯の上に胡麻がかかっており、中央には梅干が飾
ってあった。デザートのスペースにはウサギ型に切ったリンゴが可愛らしく収ま
っていた。
試しに筑前煮をつまんでみた。濃すぎず薄すぎず、程よい味付けの蓮根。噛み締
めた時の鶏肉の弾力、舌触り。色褪せない様に後から加えたサヤエンドウ。琥珀
さんの仕事が冴えている。

「うん。相変わらず琥珀さんの料理は美味しいよ」

「良かった〜。美味しく出来ているか心配だったんです」

「何で? 琥珀さんなら慣れたもんだろう」

「お弁当に入れるものは、冷めてからいただくことになるので味付けはちょっと
濃い目にする必要があるんですよ」

 琥珀さんの料理談義を聞きながら、一緒に弁当をつつく。屋敷では一緒に食事
をする事がないので、これも新鮮であり、嬉しかった。


                ※※※


 美味しい弁当はあっという間に無くなり、水筒でお茶を飲む。魔法瓶に入れた
ほうじ茶はまだ温かく、陽が当たるとは言え寒い教室の中ではありがたい。
琥珀さんはグラウンドで練習に耽る運動部の連中を眺めていた。

「志貴さん」

 不意に、声が掛けられる。琥珀さんはグラウンドに視線を遣ったまま続けた。

「志貴さんは、高校を卒業なさったら何をなさるおつもりですか?」

「んー。そうだな。高校卒業後すぐ働く、とかだったらまた秋葉にどやされそう
だし」

 二人して笑い合う。遠野家の長男として……と持ち出す秋葉の姿があまりにも
リアルにイメージできたからだろう。

「まぁ。多分大学に行く事になるんじゃないかな。その為には勉強しておかない
といけないけど」

「大学、ですか?」

「ああ。まさかまた秋葉を置いて屋敷を空けておく訳にも行かないしさ。それに
今では翡翠も、琥珀さんもいる。色々あったけれど屋敷を出る気にはならないよ」

「そうですか……」

 琥珀さんは、少々照れるような、申し訳ない様な、寂しい様な。けれど強い意
志を湛えた瞳でこちらを向いた。

「私は……。独立してみようと思うんです」

「独立?」

「はい。製薬で培った知識で今度は人を助けるようなお仕事がしたいと思いまし
て」

「そうか……」

 それは、遠野の屋敷を出て行く、と言う事でもある。やはり彼女にとっては色
々とありすぎたのだろうか。

「あ。誤解なさらないで下さいね。志貴さん」

 心を読んだかのように琥珀さんの合いの手が入る。

「私は単純に、私の出来る範囲で、私に出来る事をやってみようと思っているだ
けなんです。事が済んだら、きっとまた戻ってきますよ」

 彼女はいたずらっぽく笑い、最後に「志貴さんの元へ」と付け加えた。やがて
、どちらからともなく、お互いの唇が触れ合う。
伝わる彼女の体温。気づけば俺の腕は彼女を抱きしめていた。


                ※※※


「で、いつ頃琥珀さんは屋敷を出るんだ?」

 陽も傾きだしたあたりで、二人して長い影法師を作りながら歩く。

「そうですね……。来年の春頃でしょうか」

 いつだって彼女は唐突だ。俺は彼女に振り回されてばかりかも知れない。

「長野の方にはちょっとしたアテがありまして。そちらの方に厄介になろうかと


「そっか。琥珀さんなら何か安心だ」

「志貴さん、どう言う意味ですか」

「何って、言葉通りだよ。琥珀さんなら何があっても大丈夫だろうって事」

 空虚な人形はもういない。今の彼女なら自分の夢に向かって歩いて行けるだろ
う。

「それじゃあ。あまり翡翠を一人きりで待たせるのも悪いし」

「そうですね。戻りましょう」

 二人、手を繋いで歩く。二つの影法師は寄り添って消えて行った。