「―――お願い、私を殺して」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 雨が降っている。
 
 ずぶぬれの彼女は、何時かの帰り道と同じで。
 
 ただ―――赤い瞳だけが、あの時と違っていた。
 
 本能的に悟っていたと思う。
 
 彼女がもう帰れないことを。
 
 帰る事の無い路に、進んでしまった事を。
 
 俺は―――何もしてやる事が出来ない。
 
 俺に出来る事は―――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                          「失くした愛の歌」
                        Presented by dora 2006 07 25
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「志貴くん、私を殺して。志貴くんが忘れられないぐらい惨く」
 
 夜の街を駆けずり回った。
 
 彼女を探して走り回った。
 
 ようやく見つけたのに――――血溜まりの中、たたずむ彼女は何処か虚ろな瞳でそんな事を言っている。
 
 それがたまらなく痛かった。
 
「弓塚!」
 
「私ね、もう帰れない。お日様にも当たれないの」
 
 ぎし、と頭が痛い。
 
 殺せって、誰を?
 
 何のために?
 
「弓塚!」
 
「もう一緒に歩けないな、やっと並んで歩けたのにね」
 
 ぎぎ、と体が縮む。
 
 殺すのは誰で、殺されるのは誰だ?
 
 殺すために殺すって何。
 
「弓……塚」
 
「苦しそうだよ、志貴くん。座って良いよ、あっちの汚れてないほう」
 
 血溜まりに座り込んで彼女は言う。
 
 赤い紅い夜の暗がり。
 
 新鮮な錆びた臭いは―――そのくせ死臭を孕んでいた。
 
「ごめんね、臭いね。私もう、死んじゃってるから」
 
 えへへ、死んだ時の臭いが服から取れないんだ。なんて、君はどうして笑って言えるのだろう。
 
「座らないの?」
 
「ああ、俺は―――」
 
 どうしたい?
 
 助けたいって考えても、遠野志貴には何も出来ない。
 
 じゃあ、彼女をどうすれば良いのだろう―――
 
「俺は―――」
 
「無理だよ、もう戻れないもん」
 
「―――!?」
 
 あっさりと放たれた言葉がナイフみたいに痛い。
 
 赤く染まる彼女なのに、何故か冬の倉庫を思い出した。
 
 あの時の、笑顔。アリエナイ物を見た笑顔。
 
「私を殺して。殺人鬼だもんね、志貴くんは」
 
「ち―――がう」
 
 そうじゃない。
 
 俺は殺人鬼なんかじゃない。
 
「俺は、君を助けたくて―――」
 
「嘘吐き」
 
「―――え」
 
「助けてくれなかったじゃない」
 
 それは、あの夕焼けの向こうで。
 
「助けてくれるって約束、憶えてる?」
 
「う、ああ」
 
「志貴くんは来なかった。ううん、これなかった」
 
「―――」
 
 その通りだ。
 
 俺は、そんな事がある事をまったく知らなくて。ただ―――家の不満だけを考えていた。
 
 ぎゅう、と服の胸を掴む。噛み締めた歯が痛い。
 
「だから殺して。おねがいだから殺して。知ってるよ、ポケットの」
 
「―――!?」
 
「今度は助けて。私これ以上おかしくなりたくない!」
 
 囁きは叩きつけられるような叫びへ、腕を振るうたびに紅い飛沫が飛んでくる。
 
 でも彼女の腕はいつまでも真っ赤で。
 
 まるで手枷のよう。人間じゃない牢獄に捕らえられてしまった弓塚―――それでも。
 
「弓塚―――俺は……」
 
 君を―――殺すことなど出来ない。
 
「志貴くん……」
 
 酷く傷ついた瞳が向けられる。
 
「私を殺せるのは、志貴くんだけなのに?」
 
「俺は嫌だ―――どうにかなる、だから―――」
 
「どうにもならないよっ!!」
 
 一緒に行こう。と、言いたかった。
 
「志貴くんが殺してくれないなら―――」
 
 一緒に歩こう。と、言いたかった。
 
 なのに―――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「―――殺しちゃうね、志貴くん」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 紅玉より冷たい瞳で。
 
 悲しみで冷え切った体で。
 
 君は俺を殺すというのか。
 
「く―――」
 
 考えるのは後、まず体が動いた。全力を逃走へ、火をつけた猫の様に走り出す。
 
「逃がさないんだから」
 
 冷たいその声が、何故か泣きそうに聞こえた。
 
 
 
 
 
 
 
 

 歩いて来る。
 
 振り向いた先の弓塚は、ゆっくりと歩いている。
 
 路地を抜けて繁華街へ。人ごみを、こけつまろびつ駆け抜ける。
 
「は、は―――な」
 
 ぶつかって、振り向いた。なぜ/そんな近くで/歩いているのに同じ?
 
 弓塚は居る。
 
 どれだけはしっても。
 
「なん、で―――!?」
 
 必ずはっきり見える位置に居る。
 
 此処じゃ駄目だ。
 
 この路じゃ彼女を振り切れない。
 
 ―――いいや。人間である遠野志貴に弓塚さつきは振り切れない。
 
 なら―――俺に出来る事は、何だ?
 
「あははは、志ー貴くん!」
 
 思わず振り返る。
 
 飛んできたのは黒い―――何?
 
「ぐは!?」
 
 視界がめちゃくちゃに回転する。眼鏡が衝撃で飛んでった。
 
 直撃だ。いったい何が飛んできたというのか―――
 
 頭があって、手足がある。
 
 人?
 
 酸欠で頭がぐらぐらする。
 
 湧き上がる殺意に頭がぎらぎらする。
 
 なぜ?
 
「―――死んでる」
 
 殺したのは誰だ?
 
 弓塚だ。
 
 何故殺した?
 
「志貴くん止まらないんだもん、思わず投げちゃった」
 
 俺のせいか?
 
 俺のせいなら―――否、俺の罪は俺が背負う。他の誰のせいにもしない。
                                                ―――視界
が反転する。
 君を許さない。
                                         ―――ぐるりと回った其
処は死に化粧。
「良かった、やっとその気になってくれたんだね」
 
 ちらちらとゆれる黒い線。
 
 弓塚に絡みつくそれは―――まるで呪いの様で。
 
「ああ、決めた」
 
「うん……ありがと。志貴くんの目、キレイだよ」
 
 決別の言葉は要らない、彼女を殺すために踏み込んだ。
 
 俺が刻める線は多い。
 
 その一つ一つを丁寧になぞり、最後に胸に見えた点を―――
 
「―――あ、やっぱりやだ。志貴くんも一緒に行こ?」
 
 思い出したように彼女が動き―――
 
「―――は、が」
 
 ―――ナイフを通すのと同時。ぐず、と、胸に爪をつきたてられた。そこは/ふるい/痛みの
場所で―――
 
 死ぬ。
 
 二人で死ぬ。
 
 狂々と犬の様に血を撒き散らして。
 
 別れの言葉は要らないな。
 
 こうして俺たちは死んでいくのだから。
 
「弓―――塚」
 
 視界があっという間に暗くなる。
 
 何て手際。お前は俺以上にクールに決めた。
 
「一緒だよ、志貴くん」
 
 崩れる彼女の中に倒れこむ。
 
 撒き散らされる赤と灰。その中で―――どうしてこんな事になったのかを考えながら事切れ
た。
 
 〜END〜
 









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