「―――――」 無言でただその場に膝を着いた。 全身から力が抜けて、立っていることができなかった。 夢を見ているみたいに現実感がないんだ。 頭が真っ白に凍り付いて何も考えられなくなっても、全てを理解した本能が、瞳の奥から熱いものがこみ上げさせた。 呼吸が出来ないんだ。 喉が渇くんだ。 指先が震えるんだ。 そうして溢れ出た一筋の雫が頬を濡らすころ、ようやくその光景を受け入れた。 「クソーーッッッ!!!」 蹲って力いっぱい床を殴った。 「俺は、俺はッ!―――――、……また!」 守ると誓った。 その笑顔を、大事な人を、 今度こそ失わないと。 しかし、大切なものはいつも掌からこぼれていく。 「――君を、守…るって、」 自分に出来るのはいつもその後始末だけ。 それを毎回のように後悔して、愚かと知りながら、また同じ過ちを繰り返す。 そんな何も出来ない自分が悔しくて、憎くて、 「誓っ……のに」 殺したくなった。 彼女を見殺しにした自分を、 ―――――心の中で崩れていったはずのモノが、再び別の形となって組みあがっていく。 彼女を殺したヤツを。 この手で、 足に自然と力が篭った。 ゆっくりと立が上がる。 そして頬を伝う涙をそのままに、誰もいないはずの虚空を睨みつけ静かに、しかし明確に誰かへと向かって呟く。 この眼で、 「殺す」 ―――――殺意という形になって。 牧瀬さんの両親に、彼女が殺された場所を聞き、俺は歩き出した。 今度は守るためではなく、殺すために。 辿り着いたのは、人だかりの出来たパチンコ屋の横の路地裏。 そこは今、警察が現場検証を行っていた。 彼女は最後にここで何を思ったんだろう。 恐怖に溺れたのか。 質の悪い夢だと思ったのか。 誰かに助けを乞うたのか。 何かを思う暇も無かったのか。 それは誰も知らない。分からない。 ―――――いや、一人知っている。 この事件の犯人。 アイツはあそこで眺めていたんだろう。 彼女が死ぬまでの間。ずっと。 そして、 「―――クッ!」 悔しさに歯噛みする。 俺がもっとしっかり――――、違う。 もうそんなことはどうでも良いんだ。 絶対に犯人はここに戻ってくる。 自分の成果を必ず確認しに来るはずだ。 今するべきことはヤツを、戻ってきたジャック・ザ・リッパーを見つけ、殺す。 殺す、と決意を強くして気付いた。 自分として、遠野 志貴としてこんなに人を殺したいのは初めてだ。 いつもなら抑えるはずの殺意も、抑止する気は無い。 視覚、聴覚、触覚。すべての感覚を鋭敏にして、衣擦れの音一つ逃さず、この場の事象全てを感じ取る。 ジャック・ザ・リッパーを殺す為だけに、全てを注ぎ込む。 そうしてどれだけそこに居ただろうか。 数分とも、数時間とも取れる時間の中、ひたすらヤツを待ち続け、神経を研ぎ澄ませ、 「――――うひ」 その声は確かに聞こえた。 「――――!?」 咄嗟に周りを見渡す。 中学生 ――――違う。 親子連れ ―――――違う。 女子高生 ―――――違う。 サラリーマン ―――――違う。 ――――見つけた! 左約十m。 人垣の一番奥。 男。 ヤツの容姿を頭に叩き込む。 20代後半。身長約172cm。体重約52kg。痩せ型。 黒髪の長髪。瞼が腫れぼったい。無精ひげ。 男は満足したように唇を歪めて笑みを浮かべながら、人垣を後にする。 逃がすか! 咄嗟に走り出そうとするが、身体はいつの間にか人だかりの真ん中まで押されており、そこから抜け出すのに手間取った。 何とか抜け出して、男が歩いていった方向を見る。 ヤツはゆっくりとした足取りで、遠くからでも分かるほど、その背中は愉悦にうち震えていた。 その背中を見失わないように、今から殺す男の背中を網膜に焼き付ける。 男は数十m行った所で、唐突に進路を変えた。 人気の無い路地裏へと歩いていく。 そのほうがこっちにとって好都合だ。 路地裏へと駆け込む。 ビル同士の幅は意外と広い。奥行きもそれなりに二十メートルほどだろうか。 その一番奥。 太陽が作り出したビルの影。 まるでそこが住処といわんばかりに、男は影の中に立ち、来訪者を待っていた。 「なにか……用ですか?」 男が言葉を紡ぐ。 同時に男の身体から洩れるむせ返るほどの血の臭いが鼻を衝いた。 理性が警鐘を鳴らす。 人語を喋るが、あれは人ではない。 人に見えるが、人間ではない。 そして本能は獲物を狙う獣のように、静かに訴え続ける。 あれが全ての元凶だ。 殺せ。 殺せ。 殺せ。 ヤツに報いを。 その声に導かれるように眼鏡を外す。 微かな頭痛と共に世界が死に化粧を纏う。 制服のポケットに手を入れ、指に当たった硬い感触を握る。 準備は整った。後は、――――どう始末するか。 殺気で場の空気が一瞬にして凍りつく。 「うひ、うひゃうひゃひひひ」 張り詰めた空気にあてられたのか、唐突に男が壊れた。 その音に耐えられない。 吐く息が我慢ならない。 一秒でも早くヤツを殺したい。 本能の赴くままに、鎖に繋がれた殺意という名の獣を一気に解き放った。 「フゥ」 洩れた小さな呼吸。 地面のすれすれを駆けるのではなく、あくまで普通に走るように、それでもヤツの知覚外の速さで、顔が触れそうな距離まで迫る。 そこから一気にしゃがむぐらい体勢を低くして地面に両手を着き、そのまま身体を軸に片足を独楽のように回転させて、ヤツの足を払った。 「え?」 ヤツからしてみれば、眼前で俺が消えたように見えていることだろう。 殺し合いに不釣合いなほど間抜けに尻餅を着いたヤツの左胸の点へ、ポケットから短刀を滑らせる。 そして何の躊躇いも後悔もなく、 百パーセントの殺意を持って報いの一撃を――――、 「ヒィぃいい!」 「―――!?」 点に触れる寸前でナイフが止まる。 同時に加熱した殺意が急速冷めていく。 ヤツのあまりに無様な姿に。 俺は、一体何を。 誰を殺そうとした? 俺が殺したかったのは、何の罪も無い女性を何人も殺し、牧瀬さんをその手にかけた異常殺人者、ジャック・ザ・リッパーであって、 目の前で頭を抱えながら見苦しく震える、普通の人間じゃない。 それは偶然か計算か。連続猟奇殺人犯が見せた微かな人間性、それが作り出した一瞬の空白。 「―――クヒ」 腹部に衝撃を感じたときはもう遅かった。 「ぐふぁ!!」 人間とは思えない力に吹き飛ばされ、身体は地面を滑りながら横壁へと直撃した。 「―――がはぁ!」 原付と衝突したかのような衝撃が身体をかけ抜ける。 頭を壁に打ち付け、意識が一気に沈みかけた。 動けない俺を好機と見たのか、ヤツは人間離れした跳躍力で躍りかかってきた。 太陽と重なる男。 「――――!?」 かろうじて残った視界が捉えた男の影に、俺は息を呑んだ。 それはシルエットでも判別できるほど、男の右腕は異様に肥大化し、その形を禍々しく隆起させていた。 そう、それは子供の頃に絵本で見た、悪魔の腕そのものだった。 重力の法則そのままに、男は落下する勢いもプラスして、悪魔の右腕を振り下ろした。 「く、クソ!」 あれをくらえば絶命するのは明白だった。 いうことを聞かない身体を無理やり動かして、咄嗟に横へと跳ぶ。 身体の寸でのところを悪魔の腕が通り過ぎ、コンマ数秒前まで居た場所は男の一撃で、轟音と共に手榴弾の爆心地さながらに姿を変えた。 何とか避けた俺はというと、初めから後のことなんて考えていない緊急回避だ。当然綺麗に着地できるわけなく、不恰好に地面を擦りながら倒れていた。 まだ七つ夜を落とさなかっただけ僥倖だ。 意識が混濁して動けない俺に、男は悠々とした足取りで近づく。 そして、汚染された川のようにどす黒い腕で、俺の首を掴みあっさりと身体を持ち上げると、そのまま万力を締めるように、ゆっくりと腕に力を込めた。 「―――ガッ、ア」 意識が少しずつ削り取られていく。 黒く染まっていく視界の中、男の顔は確かな喜悦に満ちていた。 く、クソ……。 後頭部の打撲が尾を引いているのか、短刀を持つ腕に力が入らなかった。 粉のようにすり潰された意識が消えかかる。脳裏に思い浮かんだのは、死ぬことへの恐怖ではなく、 牧瀬さんの顔を思い浮かべると悔しくて仕方なかった。 彼女の敵を討つと誓ったのに、 相手を必ず殺すと決意したはずなのに、 いざやってみれば、犯人が見せた人間性に最後の一撃を躊躇ってしまった。 その自分の甘さにほとほと腹が立つ。 後悔に苛まれながら、ついに残った意識も無くなり、七夜の短刀を落と、 「おーい! 喧嘩だッ! 警察! 早く来てくれー!」 思いがけない乱入に、楽しみを邪魔された男の表情が不快げに歪む。 同時に首の拘束が僅かに弛んだ。 ――――今だ!! 遠のいた意識を無理やりたぐり寄せる。 それは悪魔の腕だろうが関係ない。 残った最後の力を身体中から総動員し、水を切るような滑らかさで、ヤツの右腕の線にナイフを滑らせた。 男の肘から先の部分が落下し、俺の身体も地面に落ちる。 「な―――」 その右腕によほどの自信があったのか、男は何が起こったのか理解できていない表情で、地面に転がる自分の腕を呆然と見つめていた。 俺は呼吸する間も削り、今度こそ終わりの一撃を、男の左胸の点めがけてナイフを突き出した。短刀は吸い込まれるようにヤツの胸へと決まった。と思った瞬間、 男は一瞬だけ早くそれに気付いて、間一髪のところを大きく跳躍して距離を開けた。 しかし、短刀の先には確かに捉えた感触があった。 ビルの屋上に着地した男の左わき腹は微かに出血しており、どうやら短刀はそこに掠ったようだ。 男は自分の出血を見て舌打ちした後、眼下の俺を忌々しげに見下ろした。 俺も男を見上げ、二つの視線が交わる。 「……………」 遠野 志貴はジャック・ザ・リッパーの姿を、 「……………」 ジャック・ザ・リッパーは遠野 志貴の姿を、 自分の倒すべき敵の、頭のてっ辺からつま先まで、今見える相手の全てを記憶に刻み込んだ。 数瞬、数秒あったか、 やがて男はその場から姿を消した。 「――――が、はぁ、はぁ、はぁ」 バタンと音がしそうなくらい豪快に倒れて空を仰ぐ。 何度も呼吸を繰り返して、酸素が枯渇した肺に空気を送り込む。 あそこまで逃げられちゃ、自分に追跡する手段は無い。 と、路地裏の入り口からいくつもの物々しい足音が聞こえてきた。 確かめたいけど、今の自分には首を回す体力さえ残っていない。 「大丈夫ですか?」 誰かがこちらの顔を覗き込んでいたが、視界に靄がかかって、もう目の前を判別できなくなっていた。 しかし、その男の人の声には聞き覚えがあった。 「あ、……はい」 消えかける意識で何とかそれだけを答える。 さっき乱入してきた声はこの人だろう。 「そうですか、パッと見た感じ、死ぬような傷は無いですし、手当てはこっちでしときますんで、まぁ、ゆっくり寝てください」 言われなくても、こっちはフルマラソン直後のような疲労感に襲われていて、そろそろ限界だった。 「起きたらお話を聞かせてもらいますから。……あ、そうそう」 男の人は胸ポケットからゴソゴソと何か出したけど、 「私はこういうものです」 自然と瞼が下がっていく。 「おっと、これは失礼しました。今度こそ寝ちゃってください」 最後に残った一欠けらの意識が沈む寸前、 おやすみなさい と、優しい声が耳に届いた。 |