「――――僕が知っているのはここまでです」

 

 語り終えた途端、さらに鋭さを増したシエルの視線に、男は軽く両手を上げる。 

 その意味するところは『SOLD OUT』

 つまり、ネタ切れ。

 もう一方のシエルの視線は、それが真実かどうか問うものだった。――――否、その物理的な圧力すら感じる視線は、すでに問いなどという生ぬるいレベルではなく、尋問・脅迫の域に達していた。

 

「…………」

「…………」

 

 二人の間に落ちる数瞬の沈黙。やがて、

 

「どうして私に?」

 

 と、シエルは必要の無い言葉を漏らした。

 情報を得たのだから、そのまま背を向けて姿を消せば良い。

 だが彼のもたらした情報は、シエルを戸惑わせ、余計な言葉を口にさせるほど秘匿性が高かった。

 そして彼女に情報を提供する事で一体彼にどんな得があるのか。バランスが取れていない。

 結論から言えば、不気味なほどこっちに得がありすぎるのだ。

 彼女のそんな不安をよそに、男は明日の天気を答えるかのようにあっさりと告げた。

 

「僕が情報屋で、貴女が『橘』の情報を必要としていたからです」

「私が埋葬機関の人間だと知っていたように?」

「それは別です。さっきも言ったように、貴女はご自分が思っている以上に有名人だ。

……う〜ん、そうですね。貴女の働き=僕への依頼の成功に繋がるからです」

 

 依頼内容は? と、訊いたところで彼が答えるはずも無い。

 それでも、おおよその見当がついていたシエルは追求せず、

 

「……いくらですか?」

 

 呆れ気味に嘆息するシエルに、はい? と首を傾げ返す男。

 

「だから、貴方は情報屋なんでしょう? こちらは情報を貰った側です。そちらに相応の対価を払うのが普通だと思うんですけど?」

 

 やはり無償の施しというのはなんとも気持ちが悪い。

 それ以前に、この掴みどころの無い男にだけは、貸しを作ってはいけない気がするのだ。

 

「いえ、お金はいただけません」

「いいですから!」

「……そう、ですか? どうしてもと仰るのなら」

 

 シエルに押し切られた男は、腕を組んで少し考え込んだ後、人差し指を一本だけ立てた。

 

「百万ですか」

 

 決して安い値段ではないが、情報の重要度を考えれば、五百万でもお釣りがくる。

 が、突然、男の指が二本に増えた。

 

「もう、どっちなんですか。……どちらにせよ。ここですぐさま手渡しできる金額じゃないですか――――」

「百二十円です」

「…………」

 

 屋上から音が消え、男の身体からこぼれる微かな香水の香りが、頭の麻痺に追い討ちをかけた。

 さっきも言ったように、情報には重要度というものがある。

 人を捜す場合も然り、戦争の場合も然り、何をするにも情報は必要であり、正確で機密性の高いものはより良しとされる。

 当然、それに応じて値段に差が出る。

 情報(モノ)によっては一つで一千万や、果ては五千万というのもあるぐらいだ。

 その基準に準じるのなら、彼の情報は、その量から信用性・正確性・秘匿性にいたるまでを(かんが)みても、間違いなく六百万から七百万クラス。

 それがたったの百二十円。

 缶ジュースと同レベル。週刊誌に負けるなんて、それこそ怪しい臭いがプンプンする。

 男もそれに気付いたんだろう。シエルに探るような目つきで睨まれ、慌てて手を振った。

 

「あ、いや、情報自体は本当ですよ!……理由を言わなきゃダメですか?」

 

 早く言えよ。と、無言で焦げそうな熱視線を放ち続けるシエル。

 

「分かりました。言いますから、怒らないでくださいよ」

 

 はぁ、と溜息を吐いて、男は夜空を見上げた。

 

「飲み物でも飲みながら、星を見ようかと。ほら」

 

今日はこんなに空が澄んでいる。

 

と、憧れるように、歓喜するように、男はそっと呟いた。

言葉を追うようにして、シエルは視線を流す。

そこには夜空を覆い尽くすほどの光の粒と、エメラルドグリーンの河が、一枚の完成された絵画のように、シエルの瞳を惹きつけた。

 それは思わず時間を忘れてしまうほど壮麗で、美しく、しかし、その光景が幻想的すぎるほど、強烈な存在感を有する世界の前では、あまりに脆すぎた。

 それでも水が染み込むように、確実に彼女の心を揺さぶっていた。

 屋上に一陣の風が吹く。シエルは揺れる髪を押さえて、ふと横を見ると、男の姿がこつ然と消えていた。

 消え残る気配も、熱の滲んだ跡も無かった。ただ唯一、香水の淡い香りだけが、彼の残滓として空気を漂っていた。

 

「…………」

 

 別に驚きはしなかった。男が現れたのが唐突だったんだ。それなら突然消えてもおかしくはない。

 大方、今の夜風に乗っていったんだろう。

 結局、彼に貸しを作ってしまった。

 

「……はぁ」

 

 疲労の濃い溜息を吐くシエルの足元に、夜空から一枚の白い紙がフラフラと花弁のように舞い落ちてきた。

 紙を拾い上げるシエル。掌サイズの紙には几帳面な文字で、一文だけこう書かれていた。

 

『今度、良ければ御一緒に美味しいカレー屋へ行きましょう』 

 

 カレー屋という言葉に一瞬心が弾む。が、そうじゃないそうじゃない、と慌てて首を振った。

 そして、二十一世紀最大の問題だといわんばかりに首をかしげひと言。

 

「なぜ彼は、そんな事まで知ってるんでしょう?」

 

 でも、まぁ良いか。とも思う。

 これで彼と会う約束が出来た。その時には百二十円と一緒にお礼の言葉を渡そう。

――――出来ればカレー屋も……。

 シエルは最後にもう一度だけ舞台を見下ろして、

 

「…………」

 

 姿を消した。

 

 命が消えた屋上で、静かに風が啼く。見上げる空は星の海。そこにポッカリと、異界へ通じる穴が開いていた。

 その向こうからは、女神の微笑にも似た、包み込むような優しい光が降り注ぐ。

 しかし、その恩恵を浴びることが出来るのは、天に近いこのビルの屋上だけ。周囲に『人』の気配がしないこの場所だけが、唯一、天恩を受けるに相応しい祭壇だった。

 階下には、詰め込むようにして建てられたコンクリートの木々。その中で、大小さまざまな人工の星が煌々と輝き、時に流動する。鉄の箱から吐き出される汚濁は、吐息のように昇って、空を冒していく。それはまるで、これから上演される劇に呼応するように、舞台自体が熱を持ち呼吸し始めているかのようだった。

 

 

 

 

 








 さぁ、準備は整った。

 この町を、緑秋町を舞台に始まるそれは喜劇か、悲劇か。

 ある者は開幕を知らず、ある者は開演に向けて着々と。

 それぞれの思惑を内包し、始まりのブザーと共に、緞帳は静かに上がっていく。

 最後に願わくば、この狂劇の結末が、誰にとっても幸福であらんことを。

 

 

 

 

 

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