ゆっくりと、お化けを見た子供が瞑った目を開くように、小さな隙間から現実を取り込みながら、日常へと繋いでいく。 「…………」 起きたての身体を支配するのは虚脱感。でも、それに反して頭の芯はハッキリとしている。 少年にとって睡眠とは休憩ではなく待機。 つまり、いつでもすぐに身体を最高の状態に持っていけるように維持していなければいけない。 昔は、文字通り寝ていても出来ていたのだが、今、身体の隅々にまで浸透する脱力感は理想とは程遠いものだった。 目線を巡らせて部屋を見渡す。 カーテンを閉めているせいだろう。部屋全体が少し薄暗い。 でも、少年が一番気にしたのはそこではなく、扉の向こう。いつも自分を起こしてくれている使用人が来てないことだった。 昨日を含め今日で三日目。 使用人が起床を報せにくる前に、一人で起きられるようになってもう三日が経つ。 まるで、いい加減に一人で起きなさい。と母親に怒られた中学生のようだが、もちろん使用人が彼にそんなことを言うワケが無く、たまたま早起きが三日続いているだけである。 だが、だからといって使用人もそれほど暇ではないだろう。 彼としても、その程度で彼女の手を煩わせたくなかったし、起床ぐらい一人でしたいと思っていたから、早起きできて都合がいいことに変わりは無かった。 そしてどうやら今日も成功した様子。 いつもなら、身体を覆っていた虚脱感と入れ替わるようにして湧いてくるはずの達成感と安堵感はこず、気分は真っ直ぐと平行を保ったまま、溜息だけが洩れた。 その原因は明白。 ――――お気をつけください。橘様。 頭にこびり付いて離れない声。 これがある限り、少年が友人達と笑える日は訪れない。 「ま、なんにせよ考えるのは後だな」 何をする場合にも、それをおこなうに相応しい時というモノがある。無理に考えてどうせダメになるならと、いったん思考切り替えて、すぐ横にあるカーテンを引いた。 すると、カーテンを開いた窓に、圧倒的なほどの外光が殺到し、部屋が自然の照明であっという間に明るさを得た。同時に、少年の沈む心にも淡い光が差す。 そして身体を横にズラし、ベッドの縁に腰掛ける。と、その時だった。ベッドのスプリングが軋む音に紛れて、扉をノックする音が静寂に重なった。 「洵一様。お目覚めの時間です」 昨日と寸分変わらぬ抑揚の無い声。彼女はこのまま歳を重ねても同じ声なのではないだろうか。ふと少年はそんなことを思った。 「あぁ、ちゃんと起きてるよ」 「では居間にいらして下さい。ご朝食の準備が調っております」 それだけを言うと、彼女の足音が部屋から遠ざかっていった。 彼女は気付いているだろうか。ここ三日、少年を起こしてから部屋を去るまでに発した言葉が一字一句同じだという事を。 扉を開ければ、彼女は恐らく三日とも同じ表情。動作をしているに違いない。 彼女はそういう人なのだ。意図してか、偶然かは定かではないが。 「さて」 足音が消えるのを聞き届けて、意識を内側に戻す。まるで意識に引きずられるように、思考から余分なものが消え、たった一つのことに集中し始めた。 緊張で手に汗が滲む。徐々に、徐々に、一本の血管からやがて全身へと血液を巡らせるように、焦らず、自然に、あるがままを。 前へと体重移動。膝に力を入れて、身体をベッドから離す。ゆっくりと、一瞬、頭の中を小さな恐怖がもたげたが、焦ったら全てが無駄になる。落ち着いて、自然のまま。 「……ふう」 身体はなんとか言うことを聞いてくれたみたいで、立ち上がることが出来た。 成功に安堵したのか、全身から緊張と共に力が抜けた。掌に広がった汗を拭い、溜息を吐く。 彼はこんなリハビリじみたことを、武家屋敷に住居を移してから約一ヶ月、毎日続けている。 ――――いや、これはリハビリというより、儀式に近かった。 体調の確認。――――自分の確認。 両腕を天高く挙げて背筋を伸ばす。 「うんっ……はぁ」 屋敷に来た頃は、かなり時間を喰っていた儀式も、今は半分以下の時間で終わるようになっていた。 緊張と、微かな躊躇いが入り混じるのは相変わらずだが。 というか、今日から少し忙しくなるんだ。この程度の事で時間をとられている場合ではなし、戸惑っている暇も無い。 学園の制服に着替えた少年は、改めて自分の格好に不備がないか確認する。 「――よし!」 特にオカシなところは見つからなかった。 とりあえず、登校しながらでも、さっきの件をどうするか考えるとして、まずは朝餉だ、とドアノブに手をかけた。 今回は瀬那組に舞い込むいつもの依頼とは違う。量も、質も。そして何より、それはラインの向こう側の事象だ。 だけど、これさえ解決できればまたアイツ等と――――、 カチ 「――――え?」 瞬間、呼吸が止まった。 まるで蜃気楼のように消え去った、秒針音とも、メトロノーム音とも取れるその音は、少年が誰よりも知っている音色。歯車の狂いを報せる不協和音だった。 だが、驚愕に固まる少年の顔に映ったのは、暗い悲愴の表情でも、憤怒の表情でもなく、諦念にも似た苦笑だった。 不幸って重なるもんだな〜、と思って、ふと自分はいつから不幸なんて単語を覚えたのか。そう思うと少し可笑しかったからだ。 頭の中で驚きはしたものの、心はまるで何事も無かったかのように、静寂を保っていた。 本当の目覚めを告げられた時ですら、心静かだったのだから、この程度で乱れるはずも無い。 ――――日常が壊れることに比べれば、それはあまりにも些細だから。 不意に少年は窓の向こうへと眼を向ける。何気なく眺めるように、まるで記憶の奥深くに刻み込むように。 額縁に押し込められた絵は、昨日の雨が嘘のような晴れ模様。 どこかで、この空を見たな。 頭に浮かんだ小さな疑問を思案しようとするが、彼はすぐに追想を諦めた。 薄い白雲の混ざった青空がとても美しく、きっとこの包み込むような優しい絵は無限に広がっていて、どんな場所に立っていても、顔を上げればいつでも観ることのできる、みんなのすぐ傍にあるモノなんだ。ならば、自分がどこにいてもきっと観ることができるはず。 そんな、叶う筈のない幻想を抱いたからだ。 少年は最後に、部屋に満たされた淡い朝陽以上に柔らかく、硝子の夢想以上に脆い微笑を浮かべて、たったひと言。 「――これが」 ――――最後だ。 自分の部屋を、あり余る幸福をくれた黄金の日常に別れを告げた。 |