闇に溶け込むように息を殺し、そのドアを開いた。

部屋の中に人の気配はなく、無音という住人だけが確かにそこにいた。ドアを開閉する音も、この静けさを壊すには至らず、もちろんそれは彼女がそう配慮したからであり、物音をたてるようなヘマをするわけもないが。

ドアを後ろ手に閉めると、今度は罠がないか周囲を見渡す。

壁に等間隔に張り付けられた数少ない窓からは月の光が降り注ぎ、闇に飲まれた部屋を淡く照らす、唯一の光源になっていた。

部屋の奥では、執務用のいかにも高級そうな黒檀の机が存在感を放っている。さらにその後方には何冊もの蔵書が納められた本棚が並べられているが、あるのはそれだけ。広い執務室のわりに内装は実に簡素だった。

罠の有無を確認しながら、奥へと踏み入っていく。部屋は絨毯張りで、ちょっとやそっとで足音などしそうにも無かったが、それでも細心の注意を払って音を殺していく。

念には念を。

敵地においてこの言葉は常識だ。

絨毯に投影された月光の窓に、人影が重なる。

一瞬の寂光に浮かびあがった青い髪と、神の遣いの証である濃紺の法衣。

今、歩を進めている屋敷こそ、シエルの目的地。正確にはこの邸内に存在するあるモノを調査しに来たのだ。

彼女が館を取り囲むように広がる庭園へと足を踏み入れた瞬間、――――いや、この場所を発見した時から、彼女が洋館に対して抱いた印象はたった一つ。

 

――――澱んでいる。

 

ここには言い知れぬ、だが確かにどす黒い何かが沈殿していた。

広さでは遠野邸を凌ぎ、しかし、それでいて向こうのような温かみは無く、邸内は夜の闇に没してなお暗い。流れる空気の温度は死に絶え、まるで生きる者全てを拒むかのように重みをもって、侵入者の動きを縛る。館内には不気味なほど人の気配が無いにもかかわらず、両肩に何か生暖かい感触を覚える。壁にかけられて絵画が、鎧が、人型を描いた、模した調度類が住人になり代わり、今にも動き出しそうだった。時折窓から差し込む白光までもが、安堵ではなく、疑心と恐怖を助長する要因に変わっていた。

館内に電灯が灯されていないのも頷ける。灯せないのではない、灯す必要がないのだ。

光の届かぬ冥闇こそが照明。淡い月明かりですら、この館にとっては単なる異物に過ぎない。

普通の人間が一週間でもここにいようものなら、時間の感覚が狂い、発狂してしまうだろう。

かくいう彼女も、ふと気を抜けば館の臓腑に飲み込まれてしまいそうだった。

後、百年もすれば、ここは文字通り世界から隔絶された“異界”と化すに違いない。

普通ならばありえないが、邸内に渦巻く、執念、怨恨、妄念などの“負”の気配の濃さを考えれば、あながちありえない話しではなかった。

館の侵入者対策の方も万全で、番犬やSPはもちろんの事、巧妙に仕掛けられた罠の中には魔術師用のモノもあった。

精神的なプレッシャーに加え、本物の罠。

罠というのは下手に隠そうとすれば逆に見つけやすいし、警戒もしやすい。在ると分かっているのだから。

しかし、真に厄介なのは警戒力を削がれること。在ると分かっていて見抜けないんだから、これほど性質の悪いものはない。

そういう意味でいうのなら、この洋館はとても理に適っているといえた。

 

――――確かに、半端な者が侵入すれば、返り討ちにあうのは目に見えていますね。

 

そして現在彼女が歩いている部屋こそが館の中心。当主が代々使用している執務室。――――のはずなのだが……。

執務机の天板には薄っすらとホコリが積もっており、ここ数週間使われた跡がなかった。

 

「当主の執務室はここじゃないのか」

 

 橘の現当主が座について一ヶ月あまり。執務室は別の場所に移したのかもしれない。

 だが、前の代まで使われていたのは事実。

 それなら何か手がかりが、“橘の魔術”に関して欠片程度にでも情報があればと、机の引き出しを開ける。魔術師用のトラップが存在している時点で、橘が魔術に関わっていたのは明白なのだ。

 今回、彼女が緑秋町に訪れた理由。それは橘家の調査だった。

橘。

遠野グループに引けは取るものの、遠野家単体ならば五分に渡り合える財力を持つ一族。魔術界では無名に近いが、暴力の世界では鬼門的な扱いにすらなっている。

 

橘に関わる者は破滅を覚悟せよ。

この一言(いちごん)が全てを物語っていた。

彼女はあらかじめ橘の仕業と思われる事件のデータをいくつか閲覧しているが、導き出される答えは何度読み返しても変わらない。――――常軌を逸している。

殲滅戦。

こういえば聞こえはいいが、実際はそれほど利があるモノではない。

教会も時折、吸血鬼の一族の殲滅戦などをやるが、ハッキリいって効率が悪すぎる。

殲滅戦ゆえの“一匹も逃さず”という絶対条件もさることながら、その条件をより確実なものとする為にかかる人手が半端ではない。

たとえ埋葬機関第七位の実力持つ彼女をもってしても、よほど規模が小さくない限り、“一人で、一匹も仕損じることなく”という条件は難しいだろう。わざわざそんな小難しい事をするのなら、単純に頭と次にトップに立ちそうなモノだけを潰す方がよっぽど採算が取れる。

ようは労力と実益が見合ってないのだ。

それなら何故、人手を割いてまで殲滅をおこなうか。

それは過程ではなく、一匹残らず壊滅させたという事実に意味があるからだ。

友好関係ではないとしても、同族が一匹残らず始末されたと聞けば、大半のモノは恐れおののくか、警戒を強めるか何らかのアクションを起こす。

二十七祖のように根城を持つ死徒ならともかく、領土を持たない死徒もかなり存在し、中には魔術師あがりで、身を隠す術をもつモノもいる。

そんな所在すら不確かな存在を見つけるには、こちらからシラミ潰しに捜すより、向こうから出てきてもらうほうが良いというワケだ。

もちろん、こんなことをするのは聖堂教会だからであり、たかだかイチ旧家がおこなう必要はまったくない。

しかし橘の場合、私的なモノ、請け負ったモノに関係なく、敵は無慈悲に、容赦なく、徹底的に殲滅される。時には依頼者も。

一度橘の標的にされた人間には、例外なく破滅が待っていた。

それでも、橘に依頼をする者は後を絶たない。

奇しくも、洋館の佇まいと、橘の在り方はとてもよく似ていた。

異質さ、誘引性はもちろんのこと、何より、一度関われば二度と光を見ることの叶わない、豪雨の中に建つ悪魔の館を彷彿とさせた。

 

「…………」

 

部屋に侵入してから数分立つが、今のところ特に目ぼしい情報は発見できない。

これでダメなら今度は後ろの蔵書に手をつけてみようと、大した期待を持たないまま、念のため机の最後の引き出しを開ける。と、そこには黒と赤、二冊のファイルがあった。無造作に収められている状態から見ても、さほど重要なものではないだろうが、とりあえず黒いファイルを手に取りパラパラと開いていく。

紙面一枚一枚には丁寧な字で、人の名前と数字が並べなれている。

 

――――これは……履歴か。

 

 どうやらこのファイルは橘の請け負った仕事の詳細を記載したもののようだ。つまり、

 

 橘 洵一の殺人遍歴。

 

 日付は古いモノで十年前。最も新しいモノでおよそ一ヶ月前になっている。一ヶ月前といえば、彼が咲秋学園に転入してきた時期と重なる。

 

転入したから仕事を辞めたのか……いや、違う。彼には感情があった。だから捨てられたのか。必要の無い感情に芽生えてしまったから。

 

 シエルの推測を裏付けるように、依頼者欄に記されている名前には、日本を動かす大物政治家から、大企業の中枢に位置する者、某大財閥の役員まで多岐に渡り、被害者の人数はざっと百数十人。護衛の数なども含めればその二倍におよんでいる。

 

 

「…………」

 

 事前に知っていたとはいえ、友人達と言葉を交わしあう少年の横顔を思い浮かべると、罪悪感と後悔が胸を締め付ける。

 殺人というのは思うよりも遥かに精神を消耗する。見知らぬ他人一人殺すにも。

 昔、街に住む数百人の人々を殺し、故郷を死都に変えた彼女にはそれが痛いほど分かる。もちろんそれは彼女の望むところではなかった。操られていたといってもいい。

彼女はずっと泣いていた。一緒に遊んだ友人を、好意を抱いていた少年を、両親を殺すたびに、彼女は心の中で涙を流していたのだ。

だが何十回、何百回と繰り返す頃には、もう、涙は涸れ、まともな精神など磨耗して残っていないかった。故に彼も感情を封じられていたのだ。余計な感情は善悪の呵責を生み、磨耗を早める。

それならどうすればいいのか?

心を殺すのだ。心を殺して機械になりきるしかない。

でなければ、とてもじゃないが耐えられない。

人がおこなえるのは殺人まで。

殺戮を、人が冒したとは思えない残虐な殺害行為をいうのだとするのならば、

()()まま(・・)殺戮(・・)()おこなう(・・・・)()()不可能(・・・)のだ(・・・)

この言葉が正しいとしたら、ここにいる彼女は一体何モノだというんだ?

彼女は彼女。聖堂教会が異端抹殺の為に掲げた剣、埋葬機関第七位シエルだ。

家族をその手にかけ、心をすり潰し、紅い雨を浴びた彼女が何故こうして今も人間のままでいられるのか。

彼女には目的があったから。生涯をかけて果たさなければならない目的。それはまさしく自分を地獄へと、ラインの向こうに立たせた者への復讐。そしてそれは達成される。膨大な数の犠牲の上に。

あらゆる人間を殺した。老若男女を問わず。遥か高みにある目的を達するためだけに死体を重ね続けた。

 彼女の目的は強制されたものではない。間違いなく彼女の内側から生じたものだ。ならば迷うこともあっただろう。自分勝手な復讐に他人を巻き込むのは間違っているのではないかと。

 本当の機械でもない限り、ずっと狂気を維持できる人間なんていない。

 そんな身を削るような復讐を果たした彼女が、隠棲も自害も選ばず、今もなお血路を歩いている理由。

 それが絆だった。

目を覆いたくなるような、逃げ出したくなるような現実がいくつもあった。自分を殺戮者に変えた原因を抹殺するために、自ら殺戮者になるという矛盾にも苦しんだ。

だけど、苦しい、死にたくなるような難行ばかりの中にもあった、数少ない出会いがシエルを本当の意味で救ってくれた。

 きっと自分は死んだら地獄に堕ちる。と、シエルは確信している。

 一度死んだ人は生き返らない。例え、生き返らせたとしても罪が贖われることは永遠に無いのだから。

 償えないというのならば、他人の分も自分が血を流そう。それでたくさんの人が、遠野君たちとの出会いよって救われた自分のように救われるのなら、願ってもないことだ。と。

 だが、彼女は一人の少年を巻き込んでしまった。第三者の意思によって殺戮を強制させられた自身と同じ境遇の、最も巻き込む事を忌避すべき少年を。

彼の痛みは、自身が誰よりも理解しているはずなのに……。

 

「――――」

 

かぶりを振って、耽りかけた思考と少年の顔を頭から追い払う。

今は任務中。他に気を逸らすことが出来るほど、ここは甘い場所じゃない。

黒いファイルを置き、気を取り直して、もう一冊の赤いファイルを捲る。

彼女の二つめの目的。それは、今彼女が意識から振り払った少年。正式名称、橘 洵一 司忌に関する情報収集だった。

しかし、彼の情報はすでに集まっている。目的はすでに果たされているのだ。

橘 洵一 司忌。

今代の橘の裏を背負った少年。

教会の代行者、シエルにとってはそれだけで十分。これ以上あったところで目的が変わるわけでもないし、余分な感情はいざという時、決意を鈍らせ、任務の弊害となる。仮に上手くやれたとしてもそこには後味の悪さが必ず残る。余計な詮索は彼女にとってはマイナスにしかならないのだ。

なのに、出会ってまだ三日も経たない少年に、なぜ彼女はこれほどまでに深く関わろうとしているのか。

 

橘の関係者だから?――――任務?

 

少年の過去を知っているから?――――同情?

 

ただ助けたいと思ったから?――――正義感?

 

多分、……全部だ。否定もしないし、偽る気もない。

偶然か必然かは関係ない。

埋葬機関のシエルとしてではなく、一人の人間として、少年が殺戮者だとしても、後に後悔すると分かっていても、傷つけることでしか友を守れない不器用な少年の為に、自分の出来る事をしたかった。

あの時。

窓から降り注ぐ西日が部室を染め上げる中、せり上がる悲哀を飲み下し、友人を傷つけねばならない痛みを堪えながら、それでも必死に遠ざけようと、友を見据える彼の――――、

 

「――――え?」

 

ファイルの紙面に目を走らせていたシエルの眉間にシワが寄る。かと思えば、今度はいったん細まった瞳が徐々に見開かれていった。驚愕と自失の混ざり合った、信じ続けた大事な何かを根底から崩された表情。

その文脈が成す意味を理解し、脳ミソが然るべき言葉を紡ぎだそうとした、

 

「そん――」

 

その時だった。

 

「無粋だな。深夜の来訪とは」

 

 静寂の中に、聞こえるはずのない男の声を聞いた。

 

「――――!!?」

 

 背中から覆いかぶさる津波の如き圧倒的な殺気。

シエルは咄嗟に黒鍵を三本構えながら、後ろを振り向く。間断は0.1秒も無かった。 

 状況確認は後回し。振り返ると同時に、突き刺された以上の殺気をもって、入口の向こうの深い闇を睨みつける。空中に放り出された拍子にファイルから外れた紙が、花弁のようにシエルの周囲に舞い落ちた。

 いつの間に立っていたのか、深遠の主は腕を組んで、開け放たれたドアにもたれかかっていた。

 

 気付かなかった!?

 

 全身を貫いた確かな死の残滓に、額から冷たい汗が流れる。

 冷静になってみれば、相手の殺気はとうに霧散した後。

その代価なのか、徐々に沈む不確かな地面と、ぬるま湯に浸かっているかのような、屋敷の胎に飲み込まれたあの不快な感覚が濃度を増して、部屋を浸食していくのが分かった。

 調べ物をしていたとはいえ、警戒を怠ったつもりはなかったし、物音一つでもあれば、すぐに反応できるはずだった。

もし、敵が声をかけないで、攻撃していたら?

彼女はこうして無事に立っていられるだろうか。致命傷とはいかなくても、何か手傷を負っていたかもしれない。敵地において、それは死を意味している。

 察知できなかった自分に対する苛立たしさと、未だ芯に残る相手の殺気が、彼女にやり場のない怒りを覚えさせた。

 が、反省は後だ。彼女とて、二度同じミスを繰り返すつもりはない。

 周囲の変化。自身への影響。魔術発動の痕跡が無いことを確認すると、眼前の漆黒の闇に巣食う“異物”の正体を看破することに努めた。

 室内全体が暗いせいで男の表情は今ひとつハッキリしない。かろうじて見えるのは、男が召している灰色のスーツのみだが、今度は姿形おろか、気配すら見逃すつもりはない。

 黒鍵を握る手に力が篭る。

 シエルの高まっていく緊張とは裏腹に、男はそれこそ近所を散歩するような何気ない足取りで、組んでいた腕を解き、絨毯の床を静かに歩き出した。

 

「また教会の狗か。過日、処分したばかりだと思っていたのだが」

 

 静寂を塗り替える、清流を連想させる澄んだ声。意思の有無に関わらず、相手の心に染み込む声は、その実、一部たりとも感情が滲んでいなかった。コンピューターで肉声を真似て作ったような、無機質で歪、だが確かに完成された音の塊。

 少なくとも、今、男の声を耳にしているシエルはそう認識した。

 十歩にも満たない距離で、革靴と絨毯の擦れる低い音が止む。

 そして、窓から差し込む月光に男の顔が浮かび上がった瞬間、シエルの思考は真っ白に染まった。

 

「――――、橘く……」

 

 息が止まり、驚きに喉がかすれる。

 反射的に吐き出た言葉は形になることなく、中空へと散っていった。

 そう、まるで鏡に映したかのように、目の前の男は、橘 洵一と同じ顔をしていた。

 

 いや、違う。

 

 それでもシエルの観察力が――――いや、殺し合いを日常とするものだからこそ気付いた些細な違い。しかし、その要因を瑣末というにはあまりにも、彼と目前の男は違いすぎた。

 男のほうが幾分歳を重ねていて、橘 洵一も男の歳まで年齢を積めばうり二つになるだろうが、問題はそこじゃない。

 感じ取ったのは外見ではなく、内面。

 男の瞳に宿るそれと、橘 洵一の瞳に宿るそれの性質が、同じようでまったく違っていた。

 部室で彼と向かい合った時、橘 洵一の瞳の奥に宿るそれは篝火だった。絶対零度の闇の中にありながら、それでもなお小さく燃え続ける。暗闇の中で必死に光を見つけようともがいていた。

 対して、男に映るのは無限の絶望。冷たく、何も無い。かといって、それを悲観するでもなく、外の世界を侮蔑し、何の躊躇いも後悔も無く、顔色一つ変えず命を奪うことの出来る人間。

 日常の裏側を常とする中でも、さらに奥深くに根を張る人種だ。

 

 この男が、まだ顔を知るものさえ少ない橘家の現当主。

 

 シエルの中では未だに混乱と葛藤が続いていた。あまりにもそっくりな外見。あまりにも違いすぎる内面。男が似ているのではなく、橘 洵一が似ているんだと気付いている理性と、それを認めたくない心。

 男は橘 洵一と同じ顔、仕草で言を吐く。

 

「ほう、あの出来損ないの知り合いか」

 

 眼ほどその人物を語るものはないという。

 ならばこの男は、瞳に嘲笑を浮かべる男はやはり別物だ。

 

 だって、橘君の眼は――、

「あなたに答える義務はありません。(たちばな) (けん)() 黄海(おうかい)

 

 あんなに優しげな光を湛えているのに。

 

 確信と同時に渦巻いていたモヤモヤとしていたものが消え、心が引き締まっていく。そして急速に醒めていく頭の芯が、

 

 目の前の男はここで消さなければならない。

 

 と、警鐘を鳴らしていた。

 この屋敷の具現といっても、なんら否定する要因のない男は、きっとこの先、何か大きな厄災を引き起こす。

 なぜかと訊かれれば分からないが、でもそれだけは確信に近いモノがあった。

 

 何かを起こす前に、この男だけは――――!!!

 

 距離は五間。左半身の構えから後ろ足に力を籠める。投擲ではなく、最速、最短で男を斬り伏せる――――!

 踏み出した一歩は力強く、比例するようにスピードを増したシエルは風となり、一瞬で男の懐へと潜り込んだ。

 彼女のあまりの速さに、男は姿を見失っているのだろう。男の視線は0.5秒前の世界に置き去りにされていた。

――――()った!

 彼女の確信と共に三爪の刃は首元へと吸い込まれていく。――――が、確信はすぐに驚愕へと形を変えた。

 男の首を飛ばすはずだった“死神()()()()鎌”は、まるで空気でも薙ぐかのように、なんの感触もなく、何を捉えるでもなく、鋭い横薙ぎによって起こった微風が男の前髪を揺らすのみだった。

 

「――――え?」

 

 思考の機能停止が、思わずそんな声を洩れさせた。それが一体どれほどの異常だったのか。聖堂教会で“埋葬機関”と呼ばれる集団に所属し、力のある死徒を何匹も葬り去ってきた殺しのプロであるはずである彼女が一瞬でも思考を止め、敵の前で足を揃える。という愚行が証明していた。

 だが、驚愕は彼女のみ、確かに命を断たれるはずだった男には微塵の感情もなく、ただ果ての無い闇を抱く瞳のまま、まるで目の前の果物を掴むかのように右腕を伸ばした。

 迫る腕を黒鍵で斬り飛ばせばよかった。行動に移す時間も十分に――――いや、彼女もそうするはずだった。その腕が射程距離に入った瞬間、正体不明の何かに背中が総毛立つまでは。

 

「――――!!?」

 

 彼女が回避命令を出すよりも先に、身体が反応し、大きく飛び退いた。そして最初の位置で着地すると、度重なる異常事態で思考を忘れた意識に再起動をかけた。

 

……なんだ? 今のは?

 

 黒鍵を握る手に冷たい汗が滲む。未だに止まない心臓の高鳴りが、男の一撃が必死だったことを告げている。

理解不能だった。人間であれば誰もが一度はおこなうであろう動作。

しかし、彼女はその何気ない動きに、このうえなく悪寒を覚えたのだ。

 何よりさっきのシエルの攻撃。

 踏み込む一歩から腕の振りに至るまで、彼女の一撃は理想的ともいえる軌道を描いて男を仕留めるはずだった。

 でも、結果はどうだ。ヤツは地面から一歩たりとも動くことなく攻撃を避けた。

 彼女が長年愛用している武器の射程距離を間違うわけがない。

 

――――なのに、何故?

 

 彼女は自分の実力を過信するほど自惚れてもいないし、相手の力を読み違えるほど未熟でもない。

 目の前の男は彼女より格下だ。身体能力から格闘戦。魔術戦おいてもそれは覆らない。

 両手をだらりと下げ、無造作に立つ姿からも、戦闘経験の無い素人だということが読み取れる。

 だが、今のシエルには、少なくともその素人に勝てる気がしなかった。決して負けるというワケじゃない。ただこの男が敗北に膝を折る、明確な勝利がイメージできないのだ。

 

「今の攻撃。……そして忌み名まで知っているとはな。先日の狗とはワケが違うということか。――しかし、」

 

 

 そう、今も男の後ろで傲然と鎮座するそれ、果てなく広がる闇そのモノを相手にしているかのようだった。

 例えそうだとしても、諦めるわけにはいかない。

 シエルはこれまでにも負ける戦いをいくつも潜り抜けてきた。ならば、彼女が勝てない戦いを超えられぬ道理はない。

 

 相手はたかだか人間。死徒、ましてや真祖を相手にしているワケじゃない!!

 

 己を鼓舞するように、キツく眼前の“敵”を睨みつける。

 接近戦は問題外。あの腕に掴まれないまでも、絶対何かある。こちらに致命傷を与える何かが――。全身で感じた強烈な“死”が、不確定な直感を真実へと迫らせる。

 今は直感を信じて、弓手に握った黒鍵を振りかぶる。三本の剣先が後ろを向き、次の瞬間、シエルの左腕が消えると同時に、三つの弾丸が射出された。

 シエルの投擲術“鉄鋼作用”と、男との距離を考えれば、黒鍵が威力を発揮する速度に達するには十分。

 風を巻き込みながら奔る弾丸はさながら大砲か。

必中の一撃は今度こそ男をめがけて、――――命中することはなかった。

 

「――――!!?」

 

 二本は左右の肩を、一本は左頬を掠めるようにして男を過ぎ去り、背後の壁を抉りながら半ばまで突き刺さった。

 いずれもギリギリながら、それでもやはり男に傷一つ負わせることは出来なかった。

 

――――また!?

 

 自分は悪い夢でも見ているのかと、驚怖に顔を崩すシエルの目の前で、男は宝石のように美しく、銀三日月のように残酷な冷笑を浮かべ、

 

「世界の寵愛を享けぬ貴様では、私を殺すことは出来ない」

 

 高らかに勝利を宣言し、指を鳴らした。

 いつもなら、ただの戯言と切って捨てられるが、今のシエルにとって男の言葉は十分信用にたる、信じざるをえない忌まわしき真実だった。

 驚き冷めやらぬシエルを嘲笑うように、男の後ろにあるドアから、マシンガンを持った人間が次々と部屋に流れ込んできた。

 男の前に横一列で並び、マシンガンを構える一糸乱れぬ動きは、この集団が素人の集まりではない何よりの証拠。

 全員がネービーブルーの軍服に防弾チョッキ、果ては暗視ゴーグルなんて物までつけており、その仰々しい姿は、イチ旧家が持つにはあまりにも現実離れしていた。

 

「さて、ここまで来れたことは賞賛に値する。――褒美だ」

 

 男は謳うように、拒否を許さぬ絶対の声で告げる。

 

――――逝け。

 

 アンサンブルの歌い手に応える歌手のように、兵士達の引き金に指が掛かった。

 一秒先に待つ結果(みらい)に舌打ちをしながら、シエルは間髪いれず咄嗟に横へ、部屋に張り付けられた窓へと向かって跳んだ。

 普通ならば、そのまま窓を突き破って逃げるのだろうが、不幸にも部屋はそれほど狭くない。多少横っ跳びしたところで、十いくつもある黒い銃身からは逃れられないだろう。が、それは常人ならば。

 今、男達の目の前にいるのは、そこらにいる代行者、その他大勢の魔術師ではない。

 シエルは左掌に隠し持った小さな球状の礼装に瞬時に魔力を篭めると、つい今しがたまで自分の立っていた位置へと放り投げた。

 瞬間。球状の礼装が圧倒的な光量を解放し、部屋の中が目も開けられぬほどの光で溢れかえった。

 身体をくの字に折る者。暗視ゴーグルで目が焼けてもがく者。様々な反応を見せる中、窓に向かって跳んでいたシエルは窓を突き破り、

 

「…………」

 

 館の外へと着地した。しかし、ここはまだ橘の敷地内。ガラスの破裂音にいち早く気付いた番犬達が、咆哮をあげながら群がってくる。女の白い喉を喰い破らんと跳び掛かってきた一匹目を黒鍵で縦に切り裂き、なおも猛然と襲ってくる数匹を蹴り飛ばすと、彼女は再び地を駆けて大きく跳躍し、張り巡らされた格子を跳び越えた。

 そのまま一般家屋の屋根から屋根へと跳躍を繰り返す。

 兵士達は暗視ゴーグルを装備していたから、今頃文字通り、目が眩んでいるだろう。中には目が潰れた者もいるかもしれない。――――だというのに。

 窓を突き破り、部屋から脱出しようというさなか、彼女が見たモノは、誰もが視界を失った中で迷い無くこちらを見つめる、橘 顕吾の姿だった。

 思い出そうとすれば、すぐに想起できるあの眼差し。

 この世全てを見下す瞳が侮蔑と失望を篭めて言っていた。

 この程度か、と。

 

「――――クッ」

 

 覚めたはずの悪夢にシエルは強く歯噛みする。

 そう、あれは悪夢だ。どの攻撃も必殺。人間一人に見舞うには過ぎた一撃だった。

その結果はどうだ?

並みの死徒ならば一撃で葬り去ることのできる会心の一手も、相手の、たかだか人間の髪の毛一本落とすことすらできなかった。

 もしこれが長期の戦闘、仮に戦争とするのなら戦略的撤退だろう。だが、あれを一つの勝負と見るのなら、間違いなく彼女の敗北だ。

 

「――――」

 

 何の前触れもなく感じた、あるはずの無い視線に足が止まり、瞼に焼きついた忌まわしき真実が後ろを振り返らせる。

悪夢の舞台になった館は、誘引するわけでも、追放するわけでもなく、月光を遮り周囲の闇に溶け込みながら、ただ静かに侵入者を見つめ続けていた。

熱も冷気も感じさせない無色なその眼差しに、男の(くら)く沈んだ瞳が重なる。

 

「…………」

 

雪辱、憤怒、驚愕、かけめぐっては消えていく様々な感情を蒼い双眸に押し込め、シエルは目前の館に、

 

「あれが橘家の総本山。そして――――」

 

 脳裏に浮かぶ、深淵の盟主と同じ相顔の少年。

 シエルの瞳の中で波立っていたモノがスーッと音も無く溶けていく、残ったのは憐憫と哀切を帯びた、悲しげな蒼瞳だけだった。

 

「橘 洵一の育った場所」

 

 揺れる双眸と腰元で強く握られた拳の意味するところが何なのか、それは彼女の意識の端を横切った赤いファイルだけが知っている。

 

 

 

 

 

Novel