その日、シエルが橘 顕吾の来訪に気付いたのは、ちょうど昼休みに入った頃。橘 顕吾が学園の敷地に踏み込んだ瞬間だった。

 

「――――!!?」

 

忘れられるはずのない不気味な威圧感が背筋を撫で、地面を離れようとしていた足が不自然に止まる。

廊下で唐突に固まった自分に、幾人かの生徒の視線が集まっていることは気付いていたが、それどころではない。

 橘 顕吾に自分の存在が露見したのかと焦燥を覚えるも、シエルはすぐさま考えを改めた。

 学園に侵入する際、彼女は目が合った人物全員に“自分の存在を疑問に思わない”という暗示をかけており、記録から彼女の存在が露呈することはありえない。

魔術師としてアデプトの域に達しているシエルならばなおのこと。ミスなどあるはずがない。

だが、幾多の絶望的な状況を打破してきた魔術も、シエルにとっては決定的な確信にはなりえなかった。シエルが確信を得たのは、あくまで戦闘者としての勘。事前の調査と実際に対峙した時に受けた印象。それら全てを総合して導き出した結論。

それが彼女に絶対の自信を与えていた。

 橘 顕吾は基本的に自ら行動する男ではない。三重四重と、いくつもの場所を経由し、自己の痕跡を極限まで消してから間接的に関与する男だ。

 それに間接的に関与するということは、裏を返せば自分の存在を悟られたくないからに他ならないはず。

 真昼間のこんなひと目のつく場所に、しかも橘 顕吾自らシエルの抹消に乗り出すとは到底考えられないのだ。

 おそらく今回は、橘家の当主としての仕事で学園に来たのだろう。

そういえば咲秋学園は何人かの出資者からの資金提供で成り立っているはず。ならば、地元の有力者である橘家が関わっていてもおかしくない。

ここは橘 顕吾を暗殺する好機。学園への訪問なら護衛も最低限の人数しか連れていない。

 

「…………」

 

踵を返そうとシエルの脳裏に、この学園で過ごした短い日常が過ぎるが、彼女は代行者。聖堂教会の剣である限り、担い手の意志は絶対。

代行者であり続けることを望んだのは彼女自身なのだ。

 

「――――貴様っ!」

 

 耳朶を叩く突然の怒号に、シエルは後ろを振り返る。

 思索に耽っていたせいで気付かなかったが、二十メートルほど先に黒い人だかりができていた。それほど人数は多くない。その証拠に人垣の間から、V年A組の担任、飯塚 忠雄の怒りに歪んだ顔が見える。怒号と表情から察するに誰かと揉めているようだ。

一体、誰と揉めているのか気になるところだが、シエルにとってはあまりにも些細。そんなことより、今は橘 顕吾の暗殺が最優先されるし、あの男を暗殺するチャンスがそうそう頻繁に訪れるとも思えない。

 聖堂教会の異端抹殺専門部署“埋葬機関”に所属し、なおかつ“騎士団”ですら処刑不可能な異端を狩る彼女も当然この例に該当する。何よりシエル自身、一度目のチャンスを逃さない主義だ。

 

「…………」

 

 目前の日常に別れを告げ、非日常へ舞い戻ろうとしたシエルの視界の端に、

 

「――――」

 

 血よりも濃い、濃密な赤が留まった。

 ドクンと心臓がひと際高く啼き、驚愕で息が止まる。瞬きも忘れたシエルの視野が、人垣を通り越して、赤色をもつ人物の顔を自動的に拡大していく。あまりにも見覚えのある顔。

 

「――――」

 

 声が喉に詰まって名前は出てこないのに、脳裏には夕陽の部室でみた少年の表情がありありと蘇っている。頭も身体も、とうに理解している。

 

「たちば……なくん?」

 

 何度も失敗して、ようやく出てきた名前は、シエルがある意味もっとも心配している少年の名だった。

 確かにここ二、三日、洵一の姿を見ていなかった。西原 隆之の依頼をこなしていたのだろう。

 シエルは洵一のいない教室の空気がどこか息苦しかったのを鮮明に覚えている。無論、酸素濃度が薄いわけではない。

物理的にではなく、精神的な空虚感が教室を支配していた。しかし、その原因が当たり前にあるはずのモノが無いせいだというのは、どちらも変わりない。

窓際の最後尾の席だけがポッカリと空き、言葉にできない違和感も、そこから発生しているようだった。

明確な原因こそ理解できていないものの、V年C組の生徒達もその微妙な空気の変化を感じ取っているようで、みな言葉にできない微妙な違和感に戸惑っていた。

洵一と最も接する機会の多かった社達も硬い表情をしていたが、洵一の不在の原因を知る彼らに、他の生徒達以上に思うところがあるのは言うまでもない。

そんな周囲に影響を及ぼすほど、この日常に必要不可欠な少年が、今、目の前にいる。

赤よりもなお紅い、いっそ毒々しいほどの紅い髪をして。

表情もどこか虚ろで、飯塚 忠雄に向けられた眼差しからも温度が失せており、橘 洵一全体からどこか人間味が欠けていた。

数日前の洵一とはまるで別人。

それだけじゃない。モタモタしている次の瞬間に消えてしまいそうなほど、彼の存在は希薄で弱々しかった。

すぐさま手を伸ばすべきだ。シエルは何度も自分に言い聞かせる。今からでも遅いぐらいだというのに、シエルは洵一の変わりように呆然とするばかりで、声をかけるどころか身動き一つできなかった。

掴まれた飯塚 忠雄の腕の骨が嫌な音をたて、橘 洵一が場を去るその時まで。

 

「――――橘君!」

 

伸ばした腕も、静寂の中確かに響いた声も、遠ざかっていく少年の背中に届くことはなかった。

このまま少年を放っておいて良いはずがない。あの目はこちら側の、しかも奥深くに根ざした人間のする目だ。友を想い、だからこそ心を裂きながら突き放すことのできる少年がしていい目ではない。

シエルは衝動的に後を追いかけようとしたが、すぐに思い留まった。

そう、彼女は任務の途中。しかも達成する最大のチャンスを得ている。

彼女の本業を考慮すれば、選択肢が発生すること自体愚かなことだ。

しかし、彼女は迷っていた。

埋葬機関を抜ける機会は何度でもあった。少なくともあの日、その身を縛る呪いから解放されたとき、彼女は偽りなき自由を手に入れた。

命を危険に晒すこともなくなるし、何より理不尽な死を見なくて済む、与えなくて済む。後はどこか静かな場所に隠棲して、毒なんて気にしないで毎日好きな物を食べて、友人を作って、一緒に笑ったり、泣いたり、喧嘩したりして、だけど最後にはやっぱり笑いあって、残りの人生をのんびり過ごす。

そんな誰もが憧れる、されど大半の者が叶えられない夢想を目の前にして、彼女は自らそれを手放した。

答えを得るために。彼女は再び掌を血で染めることを選んだ。

罪の在りかを知るために、罪を重ねることを選んだ。

でも、それでも。

鮮血にまみれた掌で救えるものがあるのなら、重荷を背負った背中に乗せることができるのなら――――、

 

「――――」

 

シエルは走り出した。

後ろ(かこ)にではなく(みらい)へ。

 

橘 洵一の後を追いかけた。

そうして辿り着いたのは、第二天体観測部部室。つまり瀬那組が学園で活動拠点にしている部屋だった。

何故、洵一がわざわざ部室を選んだのかは定かではないが、ここに入ったのは確実。

問題は室内に洵一の他に、もう一つ人の気配がすることだ。

 まさか堂々と扉を開けるわけにもいかず、周囲に人気が無いのを確認して、シエルは静かに瞼を下ろし、耳を澄ました。

二人の間に会話はないのか、室内からはなにも聞こえてこない。

それともどちらかが会話が交わせる状態にないのかもしれない。だとしたら、どちらかなんて問うまでもない。

焦燥に煽られ、ドアノブを掴むシエル。が、それを回すより先に、

 

「ちょっと待ちなさい。どこに行く気?」

 

扉が開き、中から赤い髪の少年がでてきた。

咄嗟に天井に張り付いたシエルはその無事な姿に安堵しつつ、今度は冷静にその赤い髪を直視できた。

鮮やかで、それでいて目に痛いほど鮮烈な赤。とても人工的に染めたとは思えない。

可能性としてありえるのは、身体の変調。

倒壊した家屋に長時間閉じ込められた人間が、精神的ストレスから一晩で髪が真っ白になった事例も存在するぐらい、髪は変調の影響を受けやすい。

魔術でも副作用や魔力の流動によって髪が変色することがあるが、洋館で閲覧した資料に、橘 洵一が魔術を行使できるという記述は無かった。

 

やはり身体の不調が原因か……。

 

部室の扉が閉まり、洵一の後姿が離れていく。

助けると決意したはずなのに、遠ざかる背中にかける言葉が見つからないシエルには、佇むぐらいしか残されていなかった。

 

このままじゃ……ダメだ。

 

シエルは諦めから声をかけなかったんじゃない。逆だ。橘 洵一を救うために。助けるのなら、誰もが幸せなハッピーエンド。それを実現するために、あえて声をかけなかった。少年の赤い髪を間近で目にして、シエルはさらに決意を強固にしたのだ。

その為にはまず彼を知らねばならない。

本当の橘 洵一を。

 

「いつまでそうしているつもりですか。――――シエルさん」

「――――!!?」

 

 扉の向こうからありえるはずの無い声。

 

見つかった!? ここの廊下に来る前に気配は消したはず。

名前は知られているが、幸い、姿は見られていない。このまま身を隠すか……、いや、まだだ。まだ私はこの学園を去るわけにはいかない。

 

 ここは引く場面でも、様子を見る場面でもない。ここは進む場面だ。

扉を開けて、室内に足を踏み入れる。

狭くも広くもない室内。アルミ製の本棚。簡易冷蔵庫。使い回してボロボロになった長机と安物のパイプイス。室内はあの日の夕陽と何も変わっていない。

ただ一点。部室の中央に少女がいることを除いては。

少女は日本人離れした長い手足を組み、心底の読み切れない理知的な瞳で、ジッとシエルを見つめている。

最初に目がいくのは、何といっても顔立ち。すぐにでもファッション雑誌の表紙を飾れそうな、大人びた美麗な顔立ちは、とても高校生には見えない。日本というカテゴリーの中でも最高水準のパーツで構成されているとしか思えない美しさだ。

スタイルも良い。組まれた長い脚も、歳相応の健康美と妖艶さを両立させている。日本人の欠点とされる短足、ずん胴も目の前の少女には当てはまらないようだ。かといって、どこか一点に特化しているわけじゃないが、そのバランスの取れたスタイルこそが、彼女の魅力をさらに引き立てていた。

組み替えられる長い脚。

もし秀でているのが容姿だけなら、シエルは警戒心を懐かなかった。

隠蔽した気配を察知できるということは、常人ではない何よりの証。なら、シエルの実力もある程度予想できるはず。だが、少女の雰囲気に怯えや敵意はない。

その影響か。彼女の周囲だけがどこか華やかで、腰掛けているだけの安物のパイプイスが、アンティークチェアに見えてしまう。

彼女は部外者でありながら、まさに部屋の主。

未だ成人に至らないはずの女子高生の、その貫禄と余裕は一国の女帝を思わせた。

 相手の一挙手一投足を観察しつつ、あくまで学園の教師シエルとして振舞う。

 

「あは〜、見つかっちゃいましたか。橘君の様子がおかしかったんで、追いかけてきたんですけど……」

 

 未だに口を固く閉ざし、思惑を覆い隠した女の瞳を正面から見据え、

 

「何か知っていることがあったら教えてください」

 

 シエルの双眸から光が消え、女の瞳から隠された真実を暴き出す。

 下した命令は『情報の開示』

 別に暗示じゃなくとも、橘 洵一の情報を集める方法はある。確実で、しかも精度の高い情報を大量にもたらしてくれる専門の情報屋がシエルにはついている。

 だが、シエルに情報屋を頼る気は一分たりともなかった。

橘 洵一と正面から向き合うと決めた以上、こればっかりは自分の足で収集しなければ意味がない。

 条件付けは完璧。最低限の言葉で彼女が保有する橘 洵一の情報全てを知ることができる。

 しかも魔眼による暗示は回避不可能。相手と目が合った瞬間に、問答無用で成立させてしまう一流魔術師の証。

 ただし、

 

「……芦屋 楓」

「――――え?」

「何を話すにも相手の名前は知っておく必要があると思いますので」

 

 暗示が効いてない!?

 

 ミスがあったとは思えないが、ミスに自覚があることも少ない。それに芦屋は橘の専属医と同じ名前。たとえ偶然だとしても、もう一度暗示をかける価値はある。でも、これ以上、暗示を強めることもできないが。

 自身の力に自惚れがないシエルは、素直に自身の失敗を認め、再度暗示をかけようと再び少女の瞳の奥の奥。眼球から視神経を通じて脳幹へ。そこからさらに脳全体へと干渉しようとして、

 

「努力しているところ失礼ですが、暗示は無駄です。私には抗魔力がありますから」

 

 シエルの意を介さず目が驚きに見開かれる。

 驚愕の代償がそれだけで済んだのは、彼女の膨大な戦闘経験がなせるわざだろう。

 すぐさま表情を張り替え、平静を装う。グルグルと無軌道に回る思考も、次第に冷静さを取り戻していく。

 一方、芦屋 楓はシエルの表情の変化に気づいていながら、あえて何もなかったかのように口を開き始めた。

 

「確かに素晴らしい暗示でした。魔術特有の不自然さを隠す隠蔽。最低限の言葉だけで、必要なだけの効果を出す条件付けも。

しかし、魔眼による利点は、最大の短所でもありうる。

魔眼の利点。それは対象の目を視るだけで、魔術を成立させる強制力。逆に言えば、“目を視た人間しか効果が無い”ということです。人一人が一度にかけられる人数にも限界はあります。

 自然、学園のように人数が多い場所では使用回数が多くなる。普通の人間なら、誤魔化せますが、同じ業界の人間は誤魔化しきれません」

 

 初めから全て気付いていた、というわけか。正直、侮っていたことは認めましょう。ですが、おかげで分かったこともある。

 

「魔術師なら話は早いですね」

 

 そう。魔術師なら、これほどの聡明な彼女なら、すでに気付いているはずだ。私との、比べる必要もない実力差。

 

 シエルの顔はすでに、埋葬機関第七位のそれだった。

 

「橘 洵一に関する情報を教えてください。報酬が必要ならば、きちんと支払います」

 

 交渉のコツは相手に選択の権利を残しておくこと。力がどんなに相手より上でも、選択の余地を与えておかなければ、いざ追い詰められた時、開き直る可能性がある。

『窮鼠猫を噛む』

 有利な交渉ほど神経を張り巡らさなければならないのだ。

 シエルの思考、手腕を吟味するような不自然な間の後、何故かフッと形のいい唇を僅かに歪めて、芦屋 楓が笑った。

  

「橘ではなく、橘 洵一の……ですか」

 

 その笑みの真意を問いただすように、シエルの目が半眼に細まる。

 

「貴女ほどの方ならすでにご存知かと思いますが、芦屋は橘家の専属医です。その私が橘の屋敷に潜入した賊に教示するとお思いですか?」

「します。していただきます」

 

 即答だった。

 言葉の端々からも感じ取れる決意。瞳が、唇が、言葉が、彼女の全てがその揺るがぬ信念を物語っていた。

彼女の意志の固さは、もはや筆舌では表現不可能な域に達していた。

それを感じ取ったのか、今度は芦屋 楓がキョトンとしたまま動かなくなってしまった。

 

「……やはり貴女は変わり者ですね」

 

 呟くように、そう言った芦屋 楓の表情はとても優しい。呆れるような、しかし羨望の篭った歳相応の柔和な少女の顔へと変化していた。

 

「分かりました。橘家については何もお話できませんが。橘 洵一についてならお話しましょう」

「――――は?」

 

 今度こそシエルは驚きに崩れた自分の表情を修正できなかった。

 あまりにも意外だったのだ。

 これまでのやり取りから、彼女がそう簡単に口を割る人物ではないのは明らか。逆にやり込める側の人間ですらある。なのにどうしてこうもあっさりと話してくれる気になったのか、シエルにはまったく理解できなかった。

 シエルのそんな苦悩をも見透かしているのか、芦屋 楓はなおも悠々と答えを提示する。

 

「私に再度暗示を試みた時、貴女は暗示の効力を強めず暗示をかけなおしました。何故そのままの効力で? 強めた方が確実なのに。

簡単な話だ。暗示を強めることが出来なかったんじゃない。あえて強めなかった。

強すぎる暗示は相手の脳に強烈な負担を強いる。下手をすれば廃人なりかねないほどの。

だから貴女は相手を気遣って、暗示の効力を強めることを嫌ったのではないですか」

 

 芦屋 楓が興味を惹かれたのはその精神。思考と言い替えても良い。

 実力ならば、シエルはここにいる誰よりも優れている。例え魔術界を捜したとしても、シエルに勝てる人間などほんの一握りぐらいだろう。

 あまりにも現実離れした強さ。その強さに比例する分だけ血の滲む修練を積んだに違いない。そんな圧倒的な力とは裏腹に、シエルの考えはとても甘い。こと橘 洵一に関しては特に。

 シエルの生来の性格なのか、橘 洵一だけが例外なのか。

 力に見合わぬ精神性。決して弱いと切り捨てられるわけじゃないが、優しすぎるシエルの性格は、裏切りと死が跋扈するこの世界ではあまりにも致命的すぎる。

 故に芦屋 楓は不思議で仕方ない。

 何故シエルはそうまでしてこの世界にしがみつくのか。

 そんな疑問と同時に芦屋 楓は魅せられたのだ。残酷に徹しきれない、シエルの半端な人間臭さに。

 

「話が逸れてしまいましたね。橘 洵一についてお話しするのは構いませんが……貴女はそれでいいのですか?」

 

 そう問いかける芦屋 楓の声は低い。それは即ち、次に控えた問いの重さだった。

 

「ここから先を聞くということは、こちらの物語に介入するということです。そして聞いた以上は結末まで見届けなければいけません。しかし、貴女には帰る場所があり、そこには貴女の物語がある。それを押し退けてでも、この物語と運命を共にする覚悟が――――」