そうして俺はあの時を思い出す。

 暗く現実感さえ乏しいあの空間。

 しかし、その光景は今でも鮮明に蘇る。

 

 握ったナイフの柄の感触。

 

 刃を通して伝わる死の感触。

 

 消えていく彼女の重みと微かな吐息。

 

 そして、笑顔。

 

 

「ばいばい遠野くん。ありがとう――――それと、ごめんね」

 

 

 聞きたかったのはそんな言葉じゃなかった。

 わが身可愛さに裏切った俺を罵倒してほしかった。罵ってほしかった。

 何で私を助けてくれなかったの!?

 と吐き捨てて、心を抉ってほしかった。

 そうすれば、彼女を救えたなんて心の隅にすら思わなかったのに。

 友達を殺しておいて、救えたなんて傲慢以外の何ものでもない。

 だけど彼女は、弓塚 さつきは、そんな俺を恨まず呪わず、微笑だけを残してこの世を去った。

 

 

 

 

 

 

 

陽月譚月姫

第一話

「弓塚 さつき」

 

 

 

 

 

 

「……さま、志…さま」

 

 声が、――――聞こえる。

 

「弓……塚、さん」

 

 声に導かれるようにして、瞼を開いた。

 そして最初に目に入ったのは、


 死を纏った世界とひび割れた翡翠の姿。


 しかし瞳はジッと揺らぐことなく、俺が起きたのを確認すると、翡翠は頭を下げた。

 

「おはようございます。志貴さま」


 慌てて台の上に置いてあった眼鏡をかける。

 すると、視界中に走っていた線が一瞬で魔法のように消えた。


「―――、おはよう。翡翠」 

「朝食の準備が整ってあります。着替えてお越しください」


 翡翠はそれだけを告げて部屋を出た。

 俺はそれを見届けて、


「―――ふう」 


 と、安堵の息を漏らした。

 あんな夢の後とはいえ、―――――いや、俺の油断だな。


 弓塚さんのせいにするなんてどうかしているな。俺。

 それに、やっぱり線が視えてるのと視えてないのとでは、身体的にも気分的にも大きな差が出る。

 とはいっても、最初と比べるとずいぶん楽になったほうで、最初、この線全てが死だと知ったときは、毎日線を見るたび吐きそうなほど気分が悪くなったもんだ。

 まぁ、あんまり慣れるべきものじゃないと思うけど。


「………………」


 ふと、
窓の外に広がる青空に目を奪われる。

 吸い込まれそうなほどの蒼い空。

 彼女を殺した日も、こんな天気だったっけ。

 

 久しぶりに学校の帰りに行ってみるか。

 

 さて、そうと決まればやることは決まっている。

 とりあえず、さっさと着替えるとしよう。

 

 

 

 

 食堂に行くと、ちょうど秋葉が食後のお茶を楽しんでいる最中だった。

 

「おはようございます。兄さん」

 

 秋葉は一度だけチラッとこちらを一瞥して、ティーカップに口をつけた。

 前言撤回。楽しんでいた、だ。

 何気ない仕草だが屋敷に暮らしてしばらく経った今なら分かる。

 秋葉は怒っている。

 原因は俺の起床時間が遅いせいだろう。

 こちらも少し慣れれば分かるが、どちらにせよあまり慣れたくないのは一緒だった。

 

「おはよう。秋葉」

 

 伝わるか伝わらないか分からない謝罪の意を込めて、挨拶を返した。

 そして、朝から少しヘコんだ気分で秋葉の向かい側に腰掛けると、タイミング良く琥珀さんが食堂に顔を出した。

 

「あら、志貴さん。おはようございます」

「おはようございます」

「朝食はどうなさいますか?」

「う〜ん、それじゃあ和食で」

 

 はい、と笑顔で頷いて、琥珀さんは食堂を後にした。

 

「………………」

「………………」

 

 そして、再び秋葉と二人っきり。

柱時計の秒針音がやけに大きく聞こえる。

静かに怒ってるときの秋葉ほど、一人で会いたくない相手はいない。

一体、翡翠はどこで何をしているんだ?

 食べ始める頃には後ろにいるんだろうけど。

 一人じゃなんとも心もとない。

 

「……ところで兄さん」

「――は、はい!」

 

 思わず背筋が伸びる。

 声の裏返った俺をどう思ったのか、秋葉は少しだけ怪訝な表情を浮かべた。

 

「どうしたんですか? 兄さん?」

「いや、なんでもないんだ」

 

 俺の慌てた弁解が拍車をかけたらしく、秋葉はますます表情を曇らせた。

 

「もしかして、私の悪口でも言ってたんじゃないですか?」

「そ、そんなことないよ。(あ、当たりです)」

「二人だけだと息が詰まるとか」

「だ、だから、疑いすぎだよ。(え? 秋葉さんは超能力者ですか?)」

 

 多分この世で一番刺殺能力の高い秋葉の視線に射抜かれて、さっさと白状したほうが楽になるんではないかと思えてきた。

 

「いや、あの」

 

 あー、もう限界だ!

 

「すまな――――」

「お待たせいたしました」

 

 テーブルに両手を着いて謝ろうとした俺を、翡翠の声が遮った。

 その手には和朝食の載ったお盆を持っている。

 

 た、助かった〜。 

 

 大きく安堵の溜息を吐いて、身体を背もたれに預けたかったけど、そんなことをしたら全てが台無しになる。

俺はなんとか額の冷や汗を隠しつつ、何事も無かったかのように食事を食べ始めた。

 その後は、しばらく無言が続く。

 翡翠は俺の後ろで彫像のごとく立ち尽くし。琥珀さんは秋葉の後ろで同じく彫像化している。唯一違うのは、その顔にはいつものように不穏な微笑が浮かんでいる事か。

 あ、もう一つ違う点を見つけた。

それはさっきまで不機嫌だった秋葉も、今は機嫌が良いという所だ。いつもなら不機嫌のまま学校に行くが、今日は機嫌の直りが早い。 

 でもその原因は明白だ。

 理由はおそらく昨日の――――。

 

「兄さん」

「ん? どうしたんだ?」

「昨日のお話しなんですが……」

 

 やっぱりか。

 

「本当だよ。アルクェイドと先輩はしばらく町を離れるらしい」

 

 俺は少し沈んだ声で肯定した。

 事の発端はアルクェイドだった。

 アルクェイドは何を思ったか急に野暮用が出来たとか言って、外国旅行に行って来るとか言い出したのだ。

 聞いたときは正直、なんだそりゃー、って感じだった。

 当然、俺は反対した。

 アルクェイドを狙っているヤツはまだいるし、コイツがこんな事を言い出した時は、大抵、厄介なことを抱え込んでいる時だからだ。

 だけど、アルクェイドは頑なに拒んだ。

 自分も連いていくならという譲歩も断られた俺に出来るのは、彼女に無茶をしないように約束を取り付けることぐらいだった。

 そして、アルクェイドに信頼されていないのかと意気消沈する俺にさらに追い討ちをかけたのが、シエル先輩の任務で町を離れるという話だった。

 なんでも、日本に昔から不穏な動きを続ける旧家があるらしいのだが、つい最近その家の当主が代替わりして、動きが急に活発化しているらしい。

 シエル先輩の任務はその偵察と情報収集。

 そんな簡単なこと違うヤツに行かせればいいのにと思ったけど、実際にシエル先輩もそう言ったそうだ。

 しかしその家の魔術が、人間の魂を流動、加工するという特異性の高さ故に、魔術に精通した者じゃないと扱いが危険だという事。

 二つ目はその家がかなりの質の悪い金持ちで、下手な実力を持つ人間を送ると、逆に返り討ちで東京湾に沈みかねないからだそうだ。

 実際に中堅どころが一人沈んだらしい。

 幸い先輩は日本にいて実力もあるし、アルクェイドは外国にいるから極東の島国よりかは監視の目が届きやすいと判断したんだろう。

 以上の理由から先輩もこの町を離れる事になったんだけど、先輩が言うには、

 

「どっかの殺人狂の嫌がらせですよ」

 

 という事だそうだ。

本当はアルクェイドの時みたいに連いて行きたかったんだけど、先輩は先輩で仕事があるんだし、そこは一人の男としてきちんと自制した。……ウソです。アルクェイドに断られた直後で、言えなかったというのが本音です。

 でも話の途中で、

 

「今度は教師なんですよ〜」

 

 と言いながら先輩の浮かべた恍惚とした表情が、最後まで気になった。といえば気になったんだけど……。

 二人がいなくなって、もちろん寂しいといえば寂しいけど、せっかくならこの機会を使って、普段お世話になっている秋葉や、翡翠と琥珀さんに家族サービスが出来るチャンスなんじゃないかと思った。

 それでとりあえず色々考えた結果、浮かんだのが、 

 

「あのさ、今度みんなで音楽でも聴きにいかないか?」

 

 五つほど駅の離れた緑秋町の音楽ホールにオーケストラを聴きに行く、だった。

 オーケストラとかは苦手だけど、秋葉はああいうの好きそうだし、秋葉のバイオリンを毎日のように聴いている琥珀さんたちも嫌いではないだろう。

 

 ガチャン!

 

 まるで食器が落ちたような音がして、音源のほうを見ると、実際に秋葉がテーブルの上にティーカップを落としていた。 

 いつもならそんなミスをしないはずの秋葉は、恋人が実は血の繋がった兄妹だったことを知らされた妹のような顔つきで、これまたいつもならすぐに布巾を持って駆け寄るはずの翡翠と琥珀さんも同じような表情だった。

 

「ど、どうしたんだ?」

 

 普段三人同時に驚くなんていうことが少ない家だけに、食堂は一種の異空間と化していた。

 

「あ、あの〜、秋葉? 翡翠? 琥珀さん? お〜い、みんな戻って来〜い」

 

 

 

 

 家でどんな怪事があろうと、学校は普段どおりちゃんと開校しているわけで、俺は少し余裕を持って教室に入った。

 

「よう、遠野!」

 

 朝からするはずの無い声に振り向くと、そこには朝からいるはずの無い、乾 有彦なる人物がいた。

 そして、こう口に出さずには入れなかった。

 

「お前、なんで朝からいるんだよ」

「朝から色々失礼な挨拶をしてくれるじゃないか、遠野君」

「だってオカシイじゃん」

 

 と、こめかみをヒクつかせる有彦に、ハッキリ事実を突きつけた。

 

「お前なぁ〜、俺を吸血鬼か何かだと思ってんのか?」

「いや、それはないけどさ」

 

 真昼間から出歩く吸血鬼います。

 有彦はボリボリと頭を掻きながら、

 

「それがよ。最近またで歩かなくなってな」

「またって言うか、出歩かないのが普通だろ?」

「そりゃそうなんだが。町が騒がしくなってきてな。家を出るなって姉ちゃんがうるせーんだよ」

「一子さんが?」

 

 ああ、と頷く有彦に訊き返した。

 

「町が騒がしいってどういうこと?」

 

 すると有彦は呆れたように大仰に目を覆った。

 

「なんだ、そんなことも知らねぇのかよ。新聞ぐらい見ろよ」

「最近はちょっと見てないだけだよ。それより早く教えろよ」

 

 いい加減話を急かすと、有彦は、ハイハイ、と面倒くさげに溜息を吐いた。

 

「最近、町で三件連続して殺人が起こってるんだよ。テレビが言うには三件に共通しているのは被害者が全員女性だということ、そして―――」

 

 身体がバラバラだってことだけだ。と告げる有彦の声はすでに聞こえなくなっていた。

 








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