タン! とそれは弾むように、一度の跳躍でビルからビルへ。

法衣を夜風にはためかせる光景は異様でありながら、跳躍はダンスのステップを連想ほど軽快に、聴くモノを魅了するリズムを刻んでいく。

そうして何度、月を背負っただろう。

月光に照らされた彼女の青い髪は、つい数時間前の空の名残か。

彼女は、それこそ渡り鳥のように、この町で一番星空に近いビルへと降り立ち、髪よりも蒼い瞳で、遥か眼下を射抜いた。

煌々と輝く人工の星は、暗闇から人類を守る英知の結晶。が、同時に人々の恐怖の具現。闇を恐れる人間の心をそのまま代弁していた。

 でも、なぜだろう。

顔を上げれば、頭上にはこれだけたくさんの光があるのに、これでは足りないというのか。

人はなぜ必要以上に求めようとするのだろう?

一方的な変化はどこかに歪を生む。

天秤は両方が吊りあってこそ初めて平衡になるのだ。

 ならばこの人々が世紀の発明ともてはやす光の代償は?

 天秤に人が載れば載るほど、地球が傾いていく。

 人類が天秤の上に載っていられるのは、反対側に世界があるからだと、人々は気付いているのか。知っているのか。

天と地。違いはほんの百数メートル。

 それは確かに繋がっているのに、二つはまるで別世界だった。

 かつて―――いや、人は今もキャンバスに、魚豊かな海を、果てなく広がる青空を、星を散りばめた夜空を、そして穢れなき月を描き出す。

 全ては人々の理想であり、憧憬でもある。

 ならばどうして、人は自らの足で理想から遠ざかっていくのだろう。

 求めるモノは顔を上げればすぐ傍、こんなに近くにあるというのに……。

と、その時だった。

居るはずの無い出迎え。この町へやってきた渡り鳥を歓迎する拍手が、仄かな香水の香りと共に風に乗ってきた。

意識を切り替えながらゆっくりと後ろを振り返る。同時に右手には黒鍵を。

 最初に見えたのは、微風に流れる色素の薄い金の髪。月明かり浴び、男の髪はまるで本当の金を含んでいるかのように、柔らかく光を返す。

 

「いや〜、素晴らしいものを見せていただきました」

 

 名工が作ったガラス細工を思わせる、透き通った声。

 侮辱でも皮肉でも無く、ソイツは端整な顔立ちを緩め、心の底から感動した面持ちで、無造作に歩み寄ってきた。

 

「どなたですか?」

 

 反して女は表情を消したまま、言葉の端々に警戒ではなく、殺意を込めた。

 それは、これ以上近づけば殺すという絶対の拒絶。

 男は全てが嘘くさかった。

 外人特有の整いすぎた顔。心の奥底まで見透かしたような深緑の瞳。ひと言で相手の心をわし掴みにする声色。

 足を止め、降参とばかりに両手を挙げるその動作すらも。

 必要以上のモノが揃い、それでいて全てに中身が感じられなかった。

 

「今日は良い月だと空を見上げたら、偶然渡り鳥を見つけまして。ひと目見ようと、自分の好奇心を抑えきれずにやってきてしまったと言うワケです」

「…………」

 

 女は男を見据える。

 吸血鬼すら裸足で逃げ出そうかという鋭い視線を、男は困ったような微苦笑だけであっさりと受け流した。

 

「どうやら渡り鳥ではなく、迷鳥の類でしたか……」

 

 これは困りましたね。と笑う男の顔の皮を一枚剥がせば、その下からは、派手な化粧をしたクラウンの顔が出てきそうだった。

 

 どこの誰かは知らないが、これ以上付き合ってはいられない。

 任務はまだ始まりすらしてないのに、こんな所でつまづくわけにはいかない。

 

女は右足を半歩後ろへとずらし、身体を半身にする。

 男との距離は約三間。この距離なら一足で懐に飛び込み、首を絶つことは容易い。

 女が黒い思考に染まっていくさなか、男だけはさっきと変わらず、胡散臭い苦笑を浮かべていた。

 

「――――」

 

 女の顔が不快げに歪む。

 自分が一歩踏み込めば、策をろうするどころか、男の命はロウソクの火を吹き消すが如く、あっさりと消え去る。

 なのに何故、男はああも笑っていられるのか。

 あれはとっくにニブイなんてものを通り越している。あれじゃ、

 

――――あれじゃまるで……。

 

 想起すべきでない少年の優しい微笑が脳裏を過ぎり、少年と目の前の男を一瞬でも似ていると思ってしまった自分に、女はさらに深い苛立ちを覚えた。

 

「え〜、ヤル気満々のところ悪いんですが、僕の提案を聞いてもらえませんか? 悪い話じゃないと思うんですけど。しかもタダですよ。タダ」

「人をたぶらかす悪魔は甘言を吐いて近寄ってくるんですよ」

 

 指に挟んだ黒鍵が三本増える。

 

「あはは、すいません。これはどうやら僕の悪癖みたいで――――」

 

 それでも男は他人事のように、緊張感のない場違いな笑みを浮かべた。

 

「でも、本当に悪い話じゃないですよ。利害も一致してますし。え〜と……」

 

右足に力を篭める。そして、右手を顎に添えてなにやら考え込む男の懐に、女の姿が掻き消えた。

 

「埋葬機関第七位シエルさん」

 

 男に迫っていた風が止まり、瞳の前に黒鍵の切っ先が現れる。

 あと数ミリ前に動かせば、男の眼を貫いていたであろう、そんな距離。

 だが、死を目前にして、男の瞳に映ったのは恐怖や悲哀、ましてや憎悪ですらない。

 先ほどからまったく変わらない、おどけた表情のまま、指先で黒鍵をズラした。

 

「貴女はもう少しご自分の所属する機関と、自身の認知度を改めなおした方が良いですよ」

 

 そこで女は確信する。 

 この男は全てが嘘くさいと思った。

 でも、それは違った。

 男は『楽』を演じていたんじゃない。『楽』しか表現できないんだ。

表情や仕草や喋り方。全部は人が生きていく中で、培っていくものだ。

 だけど男のそれは、一度壊れたモノを組み直しただけなのだろう。ゆえに中身が伴わない。積み立てに歴史が無いから。

 だから、圧倒的な死を突きつけられても動じない。動じることが出来ない。そして、

 

「…………、分かりました。話を聞きましょう」

 

女は黒鍵をしまう。

 壊れてるんだから、刺激を与えても何も返ってこない。それなら殺す意味はない。と結論付けたからだ。

 しかし、その思考自体が間違いである事に彼女は気付いていない。

 彼女が彼を殺そうとしたのは、任務の障害になるからであり、決して彼から見返りを求めようとしたわけじゃない。

――――いや、彼女自身、本当は気付いているのかもしれない。気付いていながら、彼を殺さないで済む後付をした。

 他者から見ればそれは甘さ以外のなにものでもない。

 感情が壊れている。ただそれだけの理由で戦意を削がれ、相手を見逃すなんて馬鹿げている。

次の瞬間には、自分がそいつに殺されているかもしれないのに。

 だけどその甘さこそが、彼女をシエルたらしめている要因だった。

 そして見逃した最大の原因。それは、先ほど不意に脳裏を過ぎった想い人の柔和な顔だった。

 

「いや〜、良かったです。本当に殺されたらどうしようかと思いましたよ」

「御託いいですから。さっさと話をしてください」

 

シエルの素っ気の無い切り替えしに、やっぱり男はどこか歪な苦笑を貼りつけた。

 

 

 

 

T