瞼の向こうから微かな光を感じて目を覚ました。

 最初に視界に入ったのは、ようやく見慣れてきた自室の天井。

 起きたて特有の倦怠感を抱えつつ身体を起こすと、ベッドが音を立てて軋んだ。

 照明の消えた薄暗い部屋を見渡しながら、いつも起こしてくれる唯一の同居人がまだ訪れていないことに気付く。

どうやら今日は自分一人で起床できたんだと気付くと、表現しがたい奇妙な至福感に心が躍った。

 とりあえず部屋を明るくしようと、傍のカーテンを開ける。

 すると瞬く間も無く、六畳ほどの部屋が淡い外光で満たされ、窓枠の影をそのまま掛け布団に映し出した。

 そして、ベッドから立ち上がるため足を下ろそうと――――、

 自室の扉が静かにノックされた。

 

「洵一様、お目覚めの時間です」

 

 名前を呼ぶ声も、ノックと同じく控えめで、まるで俺と彼女の関係を啓示しているようだった。

 

「もう起きてるよ」

 

 まだ少し胡乱とする意識のまま、彼女に返事を返した。

 

「では居間にいらして下さい。ご朝食の支度が調っております」

 

 事務的な口調でそれだけを告げると、彼女の足音は遠ざかって行く。

 その音が耳に届かなくなるまで聞き届けて、一回だけ大きく背筋を伸ばすと、糸が解けていくように、固まった背中の筋肉がほぐれていった。

そしてそうなるのが必然だったかのように、自然と窓の外へと視線が向いていた。

 昨日の雨が嘘のような青空。

しかし、その景色を映すことが出来たのは右目だけで、左目はキツく閉じられたまま、何を捉えることもなく、闇を彷徨っていた。

 それでも右目は、窓枠に押し込められた空へと魅入られたまま、映すことを止めようとしない。

 この両目は文字通り、光と闇を見ていた。

 自室の中の時だけが停滞しているかのように、ゆったりと空気が流れ、

 

「ヤバイ。そろそろ時間だな」

 

 思わず時間の流れに乗りそうになった。

 朝がこんなに緩やかなものだと知ったのは、ここに引っ越してきてからだが、ゆっくりしすぎると危ないと知ったのもここに来てからだ。

 後ろ髪引かれる思いを抱えつつ、チラッと時計を確認する。

 ただいまの時刻は七時半。(さく)(しゅう)学園(がくえん)まで片道二十分で、遅刻判定は八時十五分だから、残り時間は約二十五分ってところか。

 なにわともあれ、ベッドから出なければ話にならない。

 

「…………」

 

 微かな緊張が決意を鈍らせ、一瞬、躊躇ってしまうが、その恐怖を振り切るように、大きく息を吸い込んだ。

 そうして取り込んだ酸素を、身体の隅々にまで行き渡らせるようにして、徐々に四肢に力を込める。ゆっくり、ゆっくりと、一つ一つの機能を確かめるように、ベッドから立ち上がる。

 すると、身体は案外素直に動いてくれた。

 ふぅ、と安堵の息を吐いて、額の汗を拭う。

 

 毎日の事とはいえ、やっぱりこれには緊張するな。

 

「……おっと」

 

 時間がそんなに無かった事を思い出し、慌ててカーテンレールの端のハンガーに掛けてある、上下灰色の制服を手に取って袖を通した。

 着替えるというのは一種の儀式だと思う。

家に帰ってスウェットに着替えるのも然り、アルバイトで制服に着替えるのも然り、服を変えることによって、次の状況に合わせて気持ちを切り替えたり休めたりするのだ。

これは咲秋学園に通い始めて気付いたというより、俺の実感だ。

 

「……よし! 完璧」

 

絶対の確信を持って部屋を出る。

 

 バタンと後ろ手に引いた扉が閉まり、主の居なくなった部屋は、白々しい光が満たす無音の世界と化し――――、また扉が開いた。

 

「一応、な」

 

 念のため念のため、と扉から顔だけを生やして、もう一度忘れ物が無いかを確認する。

 確信を持っていたとはいえ、もし忘れて行ったら、水越(みずこし)(やしろ)にどんな罵詈雑言を浴びせられるか分からないからな。

 

 それだけは本当に勘弁してほしい。

 

 

 

 

 

 洗面所で顔を洗って、残った微かな眠気を吹き飛ばすと、そのまま縁側を通って居間へと歩を進めた。

 居間に到るまでの廊下は、この家に初めて来たときに比べると少しばかり肌寒く、秋もそろそろ終わりの準備に入り、緩慢ながらも、季節は冬へ向けて確実に進んでいるんだと実感できた。

 冷たい空気を身体で切りながら居間に入ると、畳特有の草の香りと、まだかまだかと出番を待つ一人分の朝食の匂いが、それぞれの個性で鼻腔をくすぐった。

その脇、まるで初めからその場所の付属品だったかのように、一人の女性が景色に紛れて立っていた。

 彼女は、この家が武家屋敷なのに対し、黒色のロングスカートに白色のエプロン、果ては頭にレースまで付けた、純正日本家屋とは真逆の立派なメイド服を召していた。

 

「おはようございます。洵一様」

 起こしにきた時と同じ抑揚のない声とは裏腹に、彼女、山神(やまがみ) ()(おり)は丁寧に頭を下げた。

 普通の人なら、メイドというだけでもというだけでもかなりの驚きだろうが、小さい頃から実家にはたくさんいたし、言葉を交わした事はないが、メイドという存在自体には慣れたもんだった。

 

「おはよう。詩織」

 

 まだ言い慣れない朝の挨拶。口に出すたび、心の隅に何かむず痒いものを覚える。

 

「申し訳ありませんが、今朝はそんなに時間がございません。早く朝食をお召し上がりになってください」

「は? もうそんな時間か?」

「はい」

 

 さっきと寸分違わない無表情な詩織の顔から、壁掛け時計へと視線を泳がせた。

 確かに残り二十分もない。

 

「申し訳ありません」

 (こうべ)を垂れる詩織。自分が起こしたのに、ゆっくり朝食を摂る時間も無かった事を謝罪しているんだろうけど、そんなのは彼女の責任じゃない。

 

「いや、起きた後、ボーっとしてた俺が悪いんだ。詩織が謝る事じゃないよ」

 

 そうか、ほんの少しのつもりだったけど、結構時間が経ってたみたいだな。

 

「…………」

 

 と、詩織の目が、ジッとこちらを見つめている事に気がついた。

彼女の瞳は表情と同様、何の感情も滲ませておらず、それは冷めているのではなく、文字通り、『無』なのだ。

 当然、そこから詩織が何を考えているかなんて読み取れるはずもない。

 

「……………」

 

 なんというか、詩織の場合はそういうのがない分、全部、力の方にに流動するのか、妙に眼力が強い。

 だから、

 

「な、ならさっさと食べよう」

 

 こんな風に圧倒される事も珍しくなかった。

 彼女の目線から逃れるようにして、足の低い黒檀の長机の前に腰掛けると、朝食を口に運び始めた。

 

 

 

 

 

 カチャカチャ、カチャカチャ、カチャカチャ。

 

「……………」

 

 耳障りな食器の音だけが、空気を伝わって鼓膜を震わせる。

 居間には他の物音がする要因がないから、仕方ないといえば仕方ないんだけど。

 一応、テレビはある。でも、ウチでは食事のときにテレビを点ける習慣はない。

 

「……………」

 

 ついに耐え切れなくなって俺は箸を置いた。

 別に食事が不味いとかそういうわけじゃない。……ないんだけど。

 元をただせば、食器の音が気になるのも、全てがこれに帰属するのは事実だと先に言っておかなければならない。

 後ろで直立不動の使用人に恐る恐る声をかける。

 

「あ…のさ、ご飯食べてるときに後ろで立たれてると、食べにくいんだけど」

 

 ここに引っ越して早一ヶ月。毎日毎日朝昼晩と、この使用人は人が食事を食べ終えるまで、こうやって後ろで銅像化するのだ。

 立ってるだけなら問題は無い。だけど彼女の場合、その辺りの銅像と違うのは、異様に存在感があるということ。

 後ろにいるだけで、妙な圧迫感を感じてしまうのだ。

 

「いえ、そういうわけにはまいりません。気にせずお食事を続けてください」

 

 目線すら微動させずに、詩織は淡々と告げる。

 その顔は、ひと言で言えばマネキンだった。表情が変わらないのはもちろんだが、その立ち姿から眼差し、何もかもが無機質で、だからと言って冷たくも熱くもない。

ゆえに、マネキンという表現すら正しくないかもしれない。だってあれには温度がある。

 どうしてもというなら、それは一つの完成した芸術品だ。

 サイズや温度なんて関係ない。ただ、その存在感だけで、この世に留まることを認められた芸術品に近いモノがある。

 

 後、顔も綺麗だしな。

 

 おっと、これは俺の主観になるな。

肩に垂れる軽くウェーブの掛かった髪。線は細いが、同時に鋭さも兼ね備えた輪郭。日本人にしては目鼻立ちもクッキリとしているし、小奇麗な格好して繁華街に出れば、かなり人目を惹きそうだ。

しかし、いかんせん彼女は無口で、同居人の俺ですら笑った顔を見たことのない、絶対零度のツンドラぶりだ。

それゆえに、詩織と接した人間は、彼女に人形、もしくはそれに準ずる物のようだという印象を持ってしまう。

 でも、彼女にも結構普通っぽいところはある。

 

「どうしてもダメか?」

「はい」

「絶対?」

「はい」

「絶〜〜ッ対、ダメ?」

「はい」

 

 意外と頑固なのだ。

 

「…………」

 

 また無言モード。

 普通の使用人なら、言うことを聞いてくれそうなもんだが、彼女は聞かない。

これさえなければ完璧なのに、という呆れの溜息と、昔から変わることの無い彼女の性格に、安堵の苦笑が同時に洩れた。

 それならば、とベッドに潜りながら考えに考えた一計を、講じてみる。

 

「それなら一緒に喰わない? じゃないと気になって食べれないよ」

「……気にせずお食事を続けてください」

 

 まるでさっきの言葉をそのまま再生したかのような詩織の声。だが、

 

 俺はそのセリフを待ってました!

 

「気になって朝食が食べれないと、自然と食べ終わるのにも時間がかかる。そうすると、そのまま遅刻コース一直線!……っていうのは困るだろ? だからさ、な?」

 

 いくら頑固な詩織とて、俺の世話係を任されているんだ。学園に遅刻するという事はそれに背くことに他ならないはず。

 

「…………」

 

 詩織は口を開かない。身体はさっきと同じく一ミクロンも動いていないが、無視しているのではなく、どうするか思案しているんだろう。

 あまりにも動かないんで、一瞬、本気で詩織の生体機能が停止したんじゃないかと焦ったが、やがて、

 

「分かりました。それではご一緒させていただきます」

 

 と、うやうやしく一礼した詩織は、朝食を取りに居間を出て行った。

 そして見事に作戦を的中させ、血と汗の勝利をもぎ取った俺はというと、

 

「ヨシ!」

 

 ガッツポーズをキメていたりした。

 

 

 

 

 

 余談になるが、基本的にこの家の食事は和食が中心になっている。だから今朝の朝食も、焼き魚、味噌汁、麦ご飯、ほうれん草のおひたし、と洋食の洋の字も無い。

 それは主に、この家の家事を一手に担っている詩織の嗜好によるところが大きいと思うのだが、俺も和食の口当たりが好きだから特に問題はない。それに、

 

「……一様、」

 

 自分で調理したもの以外じゃ、詩織の料理しか食べられないしな。

 

「洵一様」

「――――え? ごめん。聞いてなかった」

 

 詩織の声で意識を引き戻される。

 どうやら少し物思いに耽ってしまっていたようだ。

 

「ですから、洵一様が遅刻しないようにこうしてご一緒させていただいているのに、これでは意味がございません」

 

 む、確かに詩織の言うことは正論だ。

 これでは本当に遅刻コースに乗ってしまう。

 

「そうだな、さっさと食べてしまおう」

 

 麦ご飯の盛られたお椀を持つ。

 

「はい。ですが――」

「分かってるよ。“焦るのではなく迅速に、常に心と頭の中に小さな空白を”だろ?」

 

 簡単に言えば、“どんな時、どんな状況でも余裕を持て”って事だ。

 その後、忠告どおり迅速に食べ進め、見事にご飯を喉に詰まらせた俺は、何とか時間ギリギリに食事を終えた。

 

「ごちそうさま」

 

 覚えたとおり手を合わせて朝食の終わりを宣言する。

 それを見た詩織は、食事の手を止め、

 

「それでは鞄をお持ちいたしますので、先に玄関の方へとお向かいください」

 

 そこで気付いた。

 

「あ、ヤバイ!」

 

 まさに灯台下暗し。あれだけチェックしたのに、肝心の鞄を忘れるなんて、それこそアイツらに大爆笑される。

 しかし、そんなことが彼女に関係あるはずも無く、詩織はいつも通り、初めから決められたような素っ気のない動きで、空になった食器をお盆に載せて居間を出た。

 俺もすぐに立ち上がって、詩織とは逆の縁側の方から玄関へ歩いていく。

 居間から玄関までは、縁側を通って四、五mといったところだ。時間にして五秒。

 玄関に着いた途端、足が止まった。その理由は俺のすぐ目の前にあった。

俺の眼前には、つい今しがた居間を出たはずの詩織が通学鞄を持って待機していた。――――いや、この場合は待ち構えていた。の方がしっくりくる。

 俺の疑問視が詩織を捉え、最初から俺を捕捉していた詩織の目線が空中で混ざり合う。

 

「…………」

「…………」

 

 何の色気も無い見つめ合いが続くこと数秒。

 

「食器を台所に放り込んで、俺の鞄を取りに行ってたんだよな?」

「はい」

「――――早すぎない?」

 

 きっとこの状況を見た誰しもが抱くであろう疑問に詩織は、

 

「急ぎましたので」

 

 と、さも当然のように答えた。

 

「…………」

 

 そんでもって、やっぱり黙秘権の行使。

 おかしい。絶対におかしい。

 俺の部屋は玄関を入って真っ直ぐ(黒曜石のような黒い瞳が)、突き当たりの右手にあるし(ただジッと)、その隣は炊事場だけど(鉄の視線を)、明らかに早す……。

 

「…………」

「――――」

 

 油の切れたオモチャのような鈍い動きで、首が自然と横回転していく。

 これは俺の生存本能だった。

 あまりの重圧に、水深四千メートルの深海の水圧にも耐える潜水服でも、ベッコリ逝くんじゃないかと思った。

 明らかにこれ以上突っ込まないほうが良さそうな雰囲気だ。

 

 っていうか、突っ込めん。

 

 とりあえず、この危機的状況を回避することが先決だと本能が警鐘を鳴らす。

 そして俺は――――、

 靴を履いて、鞄を受け取る。

――――素直にそれに従った。

 それが幸をそうしたのかは分からないが、詩織は特に何も言わず、俺は少しドキドキした気持ち抱えたまま、扉を開いて玄関を出た。

 瞬間、分厚い太陽の陽射しが正面から襲い掛かり、あまりの眩しさに、思わず顔の前に手をかざした。

 

 秋ってこんなもんなのか?

 

 後ろからもう一人出てくる気配。

 その気配に急かされるように、小さな疑問に答えを出さないまま歩き出す。

 玄関を閉めた詩織が後に続く。

 耳に届くのは石畳を踏みしめる音だけ、特に会話があるわけじゃない。

でも、門を出るまでの短い道。ここ一ヶ月で常例と化した習慣。後ろを歩く詩織との二歩にも満たない距離が、俺と彼女との気持ちを、そのまま表しているような気がした。

 門を抜け、立ち止まった詩織に振り返る。

 

 そこには、いつもと変わらない、

 

「今日は特に予定は無いから夕方には帰ってこられると思うけど、また何かあるような、すぐに連絡するよ」

「はい。かしこまりました」

 

 初めて会ったときから、

 

「うん。それじゃ、行ってくるよ」

「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 

 桜色の雪が舞う中で抱きしめた、あの時から変わることの無い、山神 詩織が確かにいた。

 

 お辞儀する詩織に手を振りながら歩き出す。

 その頭上、起きたときと同じように天を仰ぐ。

窓から解放された空は、自由を謳歌するようにどこまでも高く、目が痛くなるほど鮮烈に青く、無限を求めるように果てなく広がっていた。

 橘 洵一。十八歳。初めての秋。

 

 

 

 

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