教室に入ると、ちょうど予鈴のチャイムが鳴った。 何とか遅刻せずに済んだ事に安堵しつつ、後ろ手に扉を閉める。 俺が教室に入ってきた事に気付いた同級生達と、口々に挨拶を交わしながら、自分の席がある、窓側の一番後ろへと向かった。 イスに座って、今度は身体の中に積もった疲れを出すように息を吐く。 多少の準備運動も無しに走ったからといって、この身体がどうこうなるという事はありえないが、疲れないってワケでもない。動けば乳酸が溜まり、疲れに変わる。 機械だって休み無く稼動し続ければいつか壊れるんだ。それで人間が疲れないわけが無い。 だから、これも疲れのせいだと思う。 息をついて落ち着くまで、本来いるはずの友人の席に、人がいないと気付かなかったのは。 右隣二席と前の席。 社と水越のヤツはともかく、政彦までこの時間に来てないなんて珍しいな。 信じられない話しだが、この守城 政彦なる少年は絶対に遅刻をしないどころか、遅刻判定の十五分前。つまり、八時きっかりに必ず教室に入ってくる男だった。 二年の頃、それに対して半信半疑だった社が、実際に八時ぴったりに登校して来るのか教室に先回りして試したところ、なんと政彦は一秒の狂いも無く、七時五十九分から、八時に変わった瞬間に、教室へとやってきたのだ。 それ以来、彼のあだ名は『タイムマスター守城』となり、その几帳面さと真面目さが知れ渡ることになったのだが。 そんな政彦が予鈴になっても来ていないなんて、大統領がトップ会談で、ブッチをかます位ありえない。が、ただ一つだけ可能性が残っていた。それは――――、 教室の後ろ側の扉がスライドする。 入ってきた生徒は扉を閉め、こちらに気付くと、柔和に口元を緩めた。 「おはよう。洵一」 遅刻寸前だとは思えないほどのんびりとした声。 政彦は黒革の通学鞄を机のフックにかけて、自分の席に座る。 「こんな時間に登校なんて珍しいな。寝坊か?」 「いや、本当は十五分くらい前に来てたんだけどね。先生達に教材運び手伝わされちゃって」 ははは、と苦笑いを浮かべる政彦。 『タイムマスター守城』が遅れる唯一の理由。それは他人の手伝いをしていたからに他ならない。 短くも長くもない黒髪は、ひと目で一度も染色を行っていないと分かるほど、痛みの無い自然な色をしていた。今時、珍しいほど制服も着崩しておらず、まだ少し幼さが残る顔立ちを合わせ、まるで標準とお人好しを絵に描いたような少年は、実のところそのままの性格で、自分から手伝うのはもちろん、頼まれたら絶対断るという事をしなかった。 「政彦は人が良すぎるんだよ。それで遅刻してたら本末転倒だぞ」 「まぁ、その辺りは先生達も考慮してくれてるよ」 それはそうだろう。 生徒に手伝いをさせるだけさせて、遅刻させるのはさすがにシャレにならない。 「アカン! 間に合うか!?」 朝の教室は生徒達の喧騒に満ちているにもかかわらず、声は確実にその間を縫って、鼓膜を侵食してきた。 そして、俺はそんな厄介な声帯を持つ関西弁男は一人しか知らなかった。 一体何本の足で走っているんだと疑問が頭をよぎるほど、騒々しい足音が3年C組に近づいてくる。 「どぉぉおおりゃぁああああ!!」 オペラ歌手もビックリするぐらいお腹の底から出た声と、レールを破壊するのかと思わせるほどの勢いを持って、ドアが開け放たれる。 その際に鳴った、バリシャン! というありえない音は、恐らく後、百グラムでも力をかけようもんなら、即座に崩壊しかねない破滅へのボーダーラインだった。 3年C組の生徒達の呆然とした視線を満足げに受け止めながら、嵐のランナーは、 「おっはよぉぉおおお!」 登場した時と同じ声量で、教室内の空気を軋ませた。 若干、鼓膜が痛い。 これもある意味、政彦と同じく遅刻寸前とは思えない声だ。 「…………」 しかし、少年の満面の笑みに注目が集まっていたのも束の間、クラスのみんなはすぐに何事もなかったかのように、少年と挨拶を交わし始めた。 慣れているっていうのもあるんだろうが、ここで無視すれば、この拡声器がボリュームを上げるのは目に見えている。だから、みんなは無視でも冷笑でもなく、標準の対応をすることを選んだんだろう。 一瞬でそこまで判断するとは……。――――V年C組。なんて恐ろしい連中の集まりだ。 一人一人が、戦国時代の知将並み。 ここにいるみんなで犯罪組織を立ち上げたら、世界最高の犯罪組織なりそうだ。 そしてその名将達にあしらわれているのを露とも知らない幸福な男は、俺の隣までやってくると、 「おはようさん!」 狐のように吊り上った目を細めながら、人懐っこい笑みを浮かべた。 首筋まで伸び、全体的に癖毛のように外ハネした髪と、某野球球団の応援団を思わせる高いテンションこそ、瀬那 社の象徴とも言えるだろう。 この二つさえ知っていれば、コイツが自分の半径五十メートル内に侵入してきた時は、すぐに感知できる。 「おはよう。朝から元気だね、社は」 一見、皮肉とも取れそうな言葉だが、政彦が浮かべた混じり気の無い微笑が、本人に悪意は無く、本心からそう思っているのだということを代弁していた。 「まぁ、元気だけがとりえやからな!」 すると社も、片腕を捲くり上げて力こぶを強調しながら、快活な笑顔で答えた。 そんなことをしなくても、今までの一連の流れを見ていれば、お前が元気だって事は十分伝わってるよ。――――ついでにバカっぷりも。 そして、社は俺のほうを振り向き、 「昼休みはいつも通り『瀬那組』の集会やるからな」 「おぅ、了解了解」 瀬那組っていうのは瀬那 社が立ち上げた……、 頭の中から、記憶した(吹き込まれた)瀬那組の外向けの概要文を思い出す。 え〜と、確か――――、 『リー即解決! あなたのお悩み解消しちゃう(はぁと』 ――――本当にこれで良いのか? 社。 いかがわしいお店のキャッチコピーみたいで、はなはだ疑問だが、ようは人助け組織だ。 だけど、もちろんそんな――――、 まるでタイミングを見計らったかのように、本鈴のチャイムが鳴り、まばらだった席がポツポツと埋まり始めた。 「またカフェテリアでいいの?」 「そうやで」 社も政彦と喋りながら、俺の隣にある自分の席に座る。 一時間目の授業は担任、諏訪部 壱彦の英語だから、朝のホームルームを行った後、そのまま英語の授業になるだろう。 とりあえず教科書とノートを机の上に出して、担任を待つ。 ふと、前の席が目に入る。 水越のヤツは遅刻か。 まぁ、別にいつもの事だから、特筆すべき事象でもないんだけど、アイツらはそろそろ就職やら受験やらで忙しくなってくる時期らしいし、大丈夫なんだろうか。 そんな些細な心配をしているのはどうやら俺だけっぽく、教室は未だに生徒達の喧騒で満ち溢れていた。 信じているのか相手にしてないのかどっちかは分からないが、このクラスなら恐らく後者かもしれない。 窓一枚隔てて外は抜けるような青空。耳に届く何気ない会話、洩れた俺の苦笑も含めて、きっとこの周りの全てが、日常に欠かす事のできないパーツなんだと、唐突にそんな事を思った。 そして、教室の扉が開き、その欠片の一つである諏訪部 壱彦が、コツコツとハイヒールを鳴らしながら――――、 ん?――――ハイヒール!? ありえない事実に、脱力しそうな身体をなんとか立て直して、教壇の方に目をやった。 扉を丁寧に閉めたソイツは、悠然とした足取りで教師が立つべき教壇へと歩いていく。 その足元はハイヒールではなく、パンプスだった。ってそんな事はどうでもいい。 肝心なのはソイツがどう見ても諏訪部 壱彦という人物じゃないという事実だ。 こんな色を本当にしているヤツがいるのかと疑いたくなるほど、見事に青へと染まったショートヘアーの髪。顔には眼鏡をかけて、男にも見えなくは無いが、膝まである黒いスカートに白いブラウスの上には白衣と、男が着るにはあまりにも勇気のいる服装だった。 そして何より、ブラウスから浮かび上がる丸みを帯びた膨らみが、ソイツが女だという、日常に紛れ込んだ異物なんだという決定的な証明となっていた。 「はいはい。みんな早く席についてー」 いかにもビデオで予習してきました、と言わんばかりのお決まりのセリフを吐いて、出席簿を教壇の上に置く。 女の顔には爽やかな笑顔。しかし、その程度でこの異常が払拭できるはずも無く、良くてせいぜい黒から灰色に変わる程度のものだ。 周囲も呆然とした表情で女を眺めており、コイツが後、何かワンアクションでも起こそうものなら、すぐにでもどよめきが起こりそうだった。 だが、女はそんな事初めから気にしていないかのように、天板の上へ無造作に両手を着き、唖然と目を見開く生徒達を、手馴れた様子で睥睨した。 「今日は抜き打ちテストしますからねー。覚悟はいいですかぁ?」 「――――」 教室の静寂が深度を増す。 それはあたかも津波の前の静かな水面を連想させた。そして、 「なんでやねん! シエル先生! 聞いてないわ〜」 蘇った喧騒は、異物に対しての困惑ではなかった。 ちょっと待て。シエルって誰だ? 疑問を向けたのは、広がるはずの波紋が起きない水面に対してではない。 居ないはずの人物がいる。 この事態の原因。水面を震わせるはずだった、ひとしずくの水に対してだった。 理由があって、俺がただ忘れているだけなのかもしれない。 しかし、自分の中で泥の如く沈殿する何かが、その異色を許すな、キャンバスにその色を垂らすなと訴え続ける。 急かされ、煽り立つ焦燥を抑え込んで、記憶の糸をたぐり寄せる。 焦りは思考を鈍らせ、対応を間違えさせる。 “焦るのではなく迅速に、常に心と頭の中に小さな空白を” 言葉に持たされた意味ではなく、繰り返し呟くこと自体に鎮静効果があるように、何度も何度も、うつ病患者のように唱え続ける。 ――――俺達に知らされていない新任教師か? いや、それなら余計におかしい。 多少無理がきく私立学園とはいえ、担任が担当していたクラスの生徒へ、なんの挨拶も無し辞めるだろうか? 教師が不祥事を起こしたというのなら別だが、諏訪部教諭がそんな事件を起こしたという噂なんて聞いた事がない。 それに、その類の噂ならすぐに耳に入る。社がそんな事を聞きつけようものなら、すぐさま嬉々として俺達に喋るはずだからだ。 出来うる限り記憶を掘り返しても、女の名前と顔は出てこない。 「なに泣き言いってるんですか」 呆れ顔で溜息を吐く女。 …な。 ――――待て、 「普段からちゃんと勉強していれば大丈夫な問題ですよ」 社だけじゃなく、普段から勉強を疎かにしているであろう連中からも悲鳴が上がる。 ……すな ――――待てよ。 何でお前が……、 女は生徒の悲鳴を糧にしているかのように、意地の悪い笑みを浮かべていた。 ――――平然とこの世界で笑っているんだ! あれを、許すな! |