「ちょっと待てッ! アンタ誰だ!」

 

 衝動に煽られるように立ち上がる。

 勢い余ってイスを蹴倒したがそんな事は後回しだ。

 クラスの視線が一斉に集まるが、羞恥は感じなかった。いや、感じている暇なんていない。

 今は一刻も早く、この異物を除去しなくてはならない。

 その気持ちだけが、沸騰したお湯のように湧き上がり、自分を突き動かしていた。

 

「――――は? お前なに言ってんねん。シエル先生に決まってるやんけ」

 

 冗談っぽく言うなら笑いになるかもしれないが、今の俺はとてもそんな風に見えないんだろう。社だけじゃなく、クラス中が不信感に満ちた眼差しを向けてくる。

 

「…………」

 

 俺はそれに答えず、女との間に壁を形成するように、ただジッと女を見据える。

 

「そうですよ。いきなり立ち上がるからビックリしたじゃないですか」

 

 しかし、女はそれを柳のように受け流し、もう、と腰に手を当てながら、見えない壁をあっさりとすり抜けた。

 それでも俺は女を睨み続けた。――――違う。視線を外せなかった。あれは、

 

 視線を外す=死

 

という世界に生きる化け物だ。

 

 五メートル。――――地面を蹴るパンプスの音が耳を侵す。

 四メートル。――――その足取りは堂々と、それこそ当たり前のように。

 三メートル。――――日常しか生きる場を知らない、優しい微笑さえ浮かべて。

 二メートル。――――空を凝縮したような青い髪の下には、

 

「――――ッ」

 

 頭を襲う微痛。

 

 なんだ。頭が――――痛い。

 

「ほらほら、イスまで蹴倒しちゃって」

 

 しょうがないなぁ、と苦笑さえ浮かべながら、女は倒れたイスを起こす。

 

「本当に――」

 

 一メートル。

 

「――――大丈夫ですか?」

 

視界いっぱいに広がる女の顔。俺の目はまるで吸い込まれるように、

 

――――髪より深く、心を抉るほど青い、スカイブルーの瞳に囚われていた。

 

 頭を締め上げる万力の力が強まる。

 五寸釘を頭に刺され、金づちで何度も打ち付けられる鈍痛。

 それと同時に、子供がオモチャ箱にオモチャを片付けるかのような粗雑さで、脳みその中に何かが無理やり詰め込まれる。

 

「――――うっ」

 

 急激な変化に倒れそうになる身体を、咄嗟に机の上へと両手を着くことで、なんとか支える。

 

 こんな女を俺は知らない。

 

                                          いや、知っている。

 

 会ったこともない。

 

                                          シエル先生だ。

 

「――――君」

 

 加速していく思考。

 流れ込んでくる膨大な情報を、CPUは熱を上げながら処理していく。

 際限無しにヒートアップしていく演算装置。そしてそれに同調するかのように、閉じた左目が――――、

 

「橘君!」

「――――え?」

 

 我に返れば、シエル先生がこちらを心痛な眼差しで見つめていた。

 

「どうしたんですか橘君。そんな汗まで掻いて。――どうします? 気分が悪いなら保健室に行きますか?」

 

言われて気が付いた。俺の全身が総毛立ち、掌や額は汗でビッショリと濡れている。

 

「シエル先生、騙されたアカンで、そいつも勉強してないもんやから、サボろう思ってんねん」

「もう、橘君はそんな事する子じゃありません。――――それより社君。そいつもの“も”っていうのは一体どういう意味ですか? 先生に教えてくれます?」 

 

 額をヒクつかせて、笑顔という名の憤怒の表情を貼りつけるシエル先生。

 ハッと慌てて口を塞ぐ社だが、時すでに遅し、あれじゃ自分から勉強してませんってバラすようなもんだ。

 

「――――え? あ〜、あの」

 

 冷や汗を流しながら口元を引きつらせる社の姿に、教室が笑いに沸く。

 それと同時に、先ほどまでの詰まるような空気が霧散していき、みんなの笑い声が、頭に篭った熱を冷ましていった。

 

「ボーっとしてたみたいですけど、大丈夫なんですか?」

「――――はい。なんとか」

 

 心配げにこちらの顔色を窺うシエル先生に、なんとかそれだけを言って、イスに腰掛けた。

 

「そうですか。気分が悪くなったらいつでも言ってくださいね」

 

 ニコッと清涼剤代わりの笑顔を置いて、教壇へと戻っていくシエル先生の背中を見送りながら、

 

「ふぅ」

 

 小さな溜息を吐いた。

 頭の隅には微痛が残り、掌の汗は空気に晒され冷たく、異常事態の残滓を残していた。

 理由を訊かれれば分からない。

 だけど、ただなんとなく、まるですがるかのように、俺の手は閉じた左目に触れていた。

 何かが――――始まろうとしていた。

 

 

 

 

X