いつも通り教室に入った俺を待っていたのは、 「洵一、遅〜い」 ニヤついたクリーム色のショートへアーと、 「なっはっは。今日は洵一がベッタやな」 ずい分と自慢げに変わった笑い声を上げる関西人だった。 俺は目の前で起こっている怪現象を素直に嚥下することができず、まさか遅刻したんではないかと反射的に教室の壁掛け時計を見るが、時刻は予鈴の五分前。 思考が緩慢になった脳にすぐさま再起動をかける。 コイツ等の横にいる政彦は当然としても、……一体何が起こっているんだ? いくら考えたところで、説得力のある答えは出てこない。 浮かんでくるのは「天変地異の前触れか?」「徳川の埋蔵金でも出てくるのか?」などと言うワケの分からないものばかり。 ここに転校してきて約一ヶ月。 社が予鈴前に現れたのは、昨日も合わせてせいぜい三、四回程度。水越にいたっては一度も無かった。 その二人が今日に限ってそろい踏みしているなんて、凶兆か吉兆以外の何ものでもない。 動揺に波立つ心を何とか静めつつ、自分の席に向かう。 「一番最後に来た橘 洵一被告は、『カフェテラスでワンドリンク奢りの刑』に処す」 席に着いた途端、ワケの分からない刑罰を申し渡した水越裁判長の言葉で、被告人になったらしき俺は少し正気を取り戻した。 「ちょっと待ってくれ。いつからそんな決まりごとが出来たんだ?」 っていうか、刑の語呂が悪すぎだ。 すると水越は、なに言ってんのコイツ? とばかりに大仰なアクションで溜息を吐いた。 「あんたねぇ、敗者が勝者に供物を捧げるなんて当たり前じゃない」 さぁ、ちゃっちゃと出すもの出しなさい! と、ほぼ脅迫に近い理不尽な要求をしてくる正義の裁判長に、今度は俺が息をついた。 「それなら昨日までずっと遅刻をしてきてた水越に、俺らは卒業までジュースを奢ってもらえるな」 さらっと紛れも無い現実を突きつける。 政彦から聞いた話では、水越は俺が転校してくる前からかなり遅刻してたらしく、危うく留年になりかけたほどらしい。 もし水越の言うとおり、遅刻してきた人物が罰則で、他のヤツにジュースを奢るべきならば、今までずっと遅刻していた彼女に、俺達は卒業するまでずっと飲み物を奢ってもらえる計算になる。 「――グッ」 表情を苦々しげに歪め、言葉を詰まらせる水越。それとは対照的に、どちらに転んでも奢ってもらえる側にいる社と政彦は、人事のように無邪気に笑っていた。 が、安寧も束の間。次の瞬間、政彦が言ってはならない逆転の一手を放った。 「洵一。教室の近くまで国見さんと一緒だったみたいだけど、彼女元気だった?」 「あぁ、いつもと全然――――」 「「…………キラン!」」 あれ? 一瞬、社と水越の目が夜空を旅する流れ星みたく、これ以上無いというほど輝いたような……。 「ちょっとちょっと〜、朝から舞子と一緒なんてどういうご関係なのかなぁ? ヅィンウィツィ〜」 ふはぁ、と人外の呼吸法で、ニヤニヤと実に精神衛生上よろしくない笑みを浮かべる水越。 あの〜、すいません。最後の発音が、日本に来た外国人観光客みたいになってますよ? 後、ようなじゃなくて、輝いてます。現在進行形で。 しかも、さっきまで不利に追い込まれていた反動からか、水越はそれこそ鮭を見つけた熊。鑑別所から出所した不良少年のように活き活きとしていた。 「べ、別に何も無いよ。偶然、登校中に見かけたから声をかけたんだ」 別に後ろめたい事のないこちらは、1%の嘘偽りも無い真実を申告するが、 「…………」 「…………」 二人の反応は冷ややか。 正確には、社は俯き黙りこくっているので、こちらに軽蔑するような視線を突き刺してくるのは水越だ。 これの意味するところは恐らく、 ここまで来ていまさらトボけようとしてるの? 往生際悪いわね〜。 だろうな。 ――――うん。俺もコイツ等とだいぶ一緒にいるから、それぐらいは分かるようになってきた。んだけど……。 チラッと社の様子を窺う。 やっぱりこの男がまだひと言も発していないのが気になる。 このテの話題になった時、一番に喰いつくのが水越と社だ。 普段はなんだかんだと言い合いをしている二人だが、こういう時に限って、双子なんじゃないかと思わせるほど、二人は抜群のコンビネーションを見せる。 なのに喰い付いてきたのは相方だけ。社は顔を伏せ黙ったままだ。 今朝や昨日の登校も含め、もしかして体調でも悪いんじゃないかと俺は心――――、 「いや〜、洵一大臣は朝からお盛んで困るわ〜」 うん、やっぱり黙って良し! 社の浮かべる爽快な笑顔に、軽い眩暈を覚えた。 「お前なぁ、朝から下ネタなんて最低だぞ」 「アホか! そんなんどうでも良いねん! 国見とはどこまでいってん?」 さっきまでの大人しい態度はどこへやら、鼻息荒い社の顔が迫る。 その社を親指で指しながら、相方の水越も鼻と鼻が触れ合いそうな距離まで接近してくる。 「あ、まさか舞子が大人しいのを良いことに、このバカみたいにセクハラしたんじゃないでしょうね」 ここにきて最高のコンビネーションを見せ始めた二人の猛攻に、思わず身体が後ずさった。 朝からセクハラって……。 あんな人の多い通り。しかも同じ学園に通っている生徒達が行き交う中で、国見にワケの分からないことをするなんて、電車の中で痴漢ですとプラカードを掲げるようなもんだ。 どういう経路を通ったらそんな発想が思い浮かぶのか、二人のトッピな発想は相変わらず謎だらけだ。 「ホントに何もしてないって」 「それじゃあ、何したのよ」 何かしたことが前提か。 「そうや、そうや。その時の状況を細か〜く。詳し〜く。洵一の手の動き。国見の洩れる吐息と掠れる声を、一言一句間違いなく――ってちょっと待てや。誰がバカやねん」 チッ、気付いたのかよ。と忌々しげに舌打ちをする水越。 「おいこら、今、舌打ちしたな? 抉れ――――あ」 ――――ハッ! と慌てて口を押さえるが時すでに遅し。 あ〜あ、言っちゃった。 水越に『胸』とか『起伏が無い』とか『真っ平ら』とか。もうとにかく胸の話題は禁句なのだ。 お坊さん百人の前で、『キリスト最高!!』と親指を立てるようなものだとイメージしてくれれば良い。 まぁ、これからの社に起こる悲劇が自分に降りかかっても良いというのなら、言うのを止めはしないが、俺は嫌なので、政彦と一緒にこちらへと飛び火する前に、さっさと距離をとる。 何しろその危険性は、劣化ウラン弾などメじゃない。 「おい、逃げん――――」 「おい、お前。今、抉れっつったか?」 「!!?」 上擦った声と、確かな重さすら幻視する重厚な声が重なる。しかし、上擦った声が続く事は無かった。 それに対し、あ〜? と、そこいらのヤクザも裸足で逃げ出そうかという、見事なガンを叩きつける水越。 その受け手となってしまった憐れな羊は、すでに半泣き。 他の生徒は全員火の粉を恐れて、見事にこのイベントを自分の知覚外へと追い出し、何一つ変わりない日常を謳歌していた。 さすがVCの連中だ。慣れている。 その錐を具現化したような視線を一身に浴びる社の身体には、今にも大穴が開通しそうだったが、彼女の押してはならないスイッチを押してしまったのは他ならぬ社だ。 きちんと責任を取ってもらわなければならない。 「あ、あのな、ちょっと待とうや。な?」 必死さ抜群の引きつった笑顔を浮かべながら水越を宥める社。どうやら彼が選んだ選択肢は“説得”のようだ。でも、 「確かに抉れって言ったオレも悪いと思うで。でもな、オレのことをバカって言った水越さんにも責任は――――」 「あるんか?」 「無いです」 早ッ! そして弱ッ! 説得という手段で水越が宥められるなら、世界中の犯罪者はとっくに自首している。 力なくうな垂れる社。彼の姿が、力を使い果たし、コーナーサイドでイスに座ったまま気絶するボクサーのように見えるのは見間違いだろうか。 燃え尽き、生きる屍となった社をこれ以上見ていられないとばかりに、チャイムという名のゴングが鳴り響き、 「っというわけで、社は洵一に代わり『私達にカフェテラスのドリンク奢りの刑』ね♪」 一方的な蹂躙が終わり、無慈悲な略奪がここに始まった。 もはや反応することすら儘ならない社。 ヨロシク〜、と水越の飛ばしたウィンクは、いろんな意味で色気のあるモノではなく、天から降り注ぐ神の絶対命令。 一度出されれば覆る確立は皆無。逆らう事は許されず、反抗の兆しを見せようものなら、天から槍の雨。地には茨の絨毯が敷かれるだろう。 もう、命取りもいいところなのだ。 人の入っていない着ぐるみの如く、微動だにしない社の肩を、政彦は同情いっぱいに叩いた。 「カフェテラスの飲み物で命が買えるなら、僕は安いほうだと思うよ?」 「かな?」 「そうだよ。生きてるって素晴らしい」 自分の元気を分けるように、社の手を力強く握り締める政彦。 「…………」 見つめあう二人はまさに神と、それに救われた従者の関係そのものだ。 今の社には微笑む政彦の顔が菩薩のように見えるに違いない。 だが忘れてはいけない。 社の不幸は、政彦が発したひと言から始まっているということに。 物事は常に表裏一体。幸福もまた不幸からしか生まれないのかもしれない。 ――――と、まぁ、それは良いとして。 ドリンクの奢りを取り付けて上機嫌な、もう一人の神様を見やる。 やっぱり語呂悪いなぁ。 |