一体午後の天気図にどんな劇的な変化があったのか。カフェテラスで話している時まで晴れ渡っていたはずの空は、まるで灰色のペンキをぶちまけたかのようにその色を変え、ポツポツと降り出した雨は、一気に土砂降りへと様相を変えていた。

 ともすれば人間というのは無力なもので、分厚い雲に覆われた空を見上げながら、帰宅することも儘ならず、ただ佇むことしかできなかった。

 咲秋学園校舎入り口ホール。

 ここには俺と同じように、傘を持たない生徒が角砂糖にたかるアリのように吹き溜まっていた。

 中には雨中を駆け出していく愁傷な生徒もいたが、そんなメロスのような真似事は、とてもじゃないけど出来なかった。

 確かに帰れないのは困るが、雨自体は嫌いじゃない。

 あの、雨特有の匂いっていうんだろうか。降る少し前にブヨブヨの雨雲と一緒に降雨を知らせるあの匂いが、どうにも心を躍らせる。

 それにこのまま待っていれば詩織が来てくれるだろうから、もう少しこの香りを楽しみながら待ってみようと踵を返した。

 

「あ、あの〜」

 

 国見の言うとおり雨が降り出したな。

 詩織を待つとは言ったものの、この程度の事で手を煩わすのは悪いような気がする。

 

「あの〜、すいません」

 

 あ〜、さっきはあんな真似できないとか言ったけど、やっぱりここは走って……。

 

「…………」

 

 最初は周りの話し声かと思ったけど、さっきから物凄く近いところで声がする。

そう思って周囲に視線を配るが、俺に話しかけているような人はいない。

 

 幻聴か?

 

 首を傾げ、強行突破・一時待機のどちらにするか、再び思案に入ろうとし始めた時だった。

 

「あのぉ、橘さん」

 

その消え入りそうな声は傍ら。正確には斜め下から確かに聞こえていた。

 音源へと目線を下げる。

 いつの間にいたのか、声の主はこの中で唯一、傘を持っているであろう少女、国見 舞子だった。

 本来の彼女は目線を下げなければならないほど低い身長ではない。

 それでも国見が見えなかったのは、彼女が身体を萎縮させていたせいだろう。

 例えば、目の前にモノがあるのに、それが見えずに人に指摘されて初めてその存在に気付く。

 それは人がその存在をちゃんと意識できていないから視えないんだ。捜しモノが小さく、存在感が薄いものならなおさらだ。

 国見の場合は極度の緊張から身体を萎縮させ、自己の存在感を極限まで薄くしてしまった結果だと思う。

 一体、何が国見をそこまで緊張させているのかは不明だけど。

 

「なんだ、国見か」

 つい口をついて出た言葉を国見はどう解釈したのか、(しお)れた表情で申し訳なさそうに肩を落とした。

 

「……すいません」

「なんで国見が謝るんだよ?」

「すいません」

「だ・か・ら、謝るのは相手に対して申し訳ないと思っているからだろ? 俺は国見に負い目を背負わせるような事をさせたことも、された覚えも無いぞ」

 

 「ごめんなさい」は、ありがとうの意味で使われることもあるらしいけど、俺は国見に感謝されるようなこともしていない。――はずだ。

 すると国見は人間を初めて見たリスのように、目を真ん丸くした後、

 

「あ、――は、はい、そうですね。ごめんなさい」

 慌てて(こうべ)を垂れた。

 

「…………」

 

 どうやら国見が謝るのは癖みたいなモノのようだ。

 それなら一朝一夕での改善は見込めないだろう。とりあえず今は改善を諦めるとして、国見の傘に入れてもらって一緒に帰るというのはどうかな?

 今朝見た限りでは、彼女は傘を持っているみたいだし、もし途中まででも帰り道が一緒なら、――――いや、ちょっと待てよ。確か彼女が持っていた傘は、

 

「――――せんか?」

「え、なに? ごめん、聞いてなかった」

「で、ですから。あ、あの、その……」

 

 はぁ、と熱い吐息を漏らす国見。目を伏せる彼女の頬には、まるで熱を帯びたように赤みが差していた。

 もしかして、彼女は体調が悪いんではないだろうか。こちらがそう思ってしまうほど、国見の様子はどこか不自然だった。

 

「おい、国見。大丈夫か?」

「…………」

 だんだん心配になって声をかけたのだが、国見は口を(つぐ)み、浅い呼吸を何度も繰り返すばかりで、言葉を発する事は無かった。

 

 こういう時はどう対処したらいいんだ? 

 

 このまま数刻繰り返したとて、解決に至ることはなさそうな俺を置き去りにするように、国見の額には玉の汗まで浮かび始めた。

 刻々と悪化していく状況が、心を焦らせる。

 

「あー、クソ。マジでどうしたらいいんだ」

 

 タダでさえ混乱しているのに、周囲の粗雑な音楽にも似た喧騒が、こちらの焦燥に拍車をかけていた。

 

 呼吸が荒くなって、唐突に発熱と発汗が起こる症状の病気なんて、医学書にも記述されてなかったし、聞いたことも無いぞ。

 

 悩んでも悩んでも答えは出ず、ついに混乱が頂点に達して、とりあえず出たとこ勝負いこうと決意し、国見に声をかけよ――――、

 

「どうかしたの?」

 

 耳にしたことのない声に後ろを振り向いて、思わず眉間にシワが寄った。――――そこにいたのは、

 

「――え?」

 

 背中から上がった間の抜けた声。

 国見は、俺の目の前にいる女生徒を見て、息を呑んだようだった。

 

「後ろの子……えっと、国見さんだったかな?」

 

 が、女生徒はそんな事など歯牙に掛けた様子もなく、マツゲの長い瞳を細めて、こちらを窺っていた。

 首筋まで伸びた髪は艶のある黒髪。周囲の女生徒と比べても大人びて見えるのは、生まれ持った顔立ちか、それとも化粧の上手さか。綺麗に筋の通った鼻から唇まで、最高といえる全てのパーツが、これ以上ないというほど最高のバランスで配置されていた。

 しかしその雰囲気は、同じ綺麗というカテゴリーに属する山神 詩織とはまったく違うものだった。

 山神 詩織が一握りの者だけが分かる壮麗な彫刻ならば、彼女は一般大衆のために描かれた絢爛な絵画だ。

 

「――芦屋 楓」

 

 意識せず、喉からかすれた音が洩れた。

しかし、彼女にとってその反応は見慣れたものなのだろう。

 問いに答えない俺をいぶかしむでもなく、鮮やかに理想的ともいえる微笑を浮かべて、背中の後ろにいる国見に歩み寄った。

 

「国見 舞子さんよね?」

「あ、あ、はい!」

 

 いかにも緊張してます、といった感じの強張った声を出す国見に、芦屋 楓は困ったような、微笑ましいような、複雑な苦笑を浮かべた。だが、それも一瞬、

 

「ちょっとごめんなさいね」

 

 そう言って芦屋 楓は、突然国見の両頬にそっと手を添えた。

  

「ふぇ? え、ええええええ!?」

 

 驚愕に声をあげ、身体を揺らす国見。しかし、芦屋 楓は国見の手を取ると、今度は手首の内側に指を当て、無言で淡々と脈を測り始めた。

理性はすぐに芦屋 楓を止めるべきと判断を下した。理由を訊かれれば答えられない。でも、この女はダメだ。確信があったはずなのに、――――止めることが出来なかった。

この女の診察が驚くほど的確だったから。言葉を挟む隙など無いぐらい手馴れていたからだ。

そして俺はその真剣な横顔に、正確にはこの女が現れた瞬間から、背中に冷たい汗を掻いていた。

周囲からはすでに、雨宿りをしている生徒達の不特定多数の視線が集まっている。ある者はモデル顔負けのスレンダーな肢体に、またある者は大人びた端整な顔立ちに。

日本で、おおよそ誰もが美しいと思うであろう美貌。それはもはや外見だけでなく、洩れる香りから雰囲気に至るまで、全てが彼女の“美”を際立たせ、一つの“個”として存在を確立させていた。

“群れ”から独立している“個”は、一般の大多数から見れば、“異国の人間”とさして変わりない。

傍を通ればすぐ目につき、普通の人より強く印象に残る。

その本能に刻み込まれた察知能力、病的なまでに“個”を嫌う潔癖の深層意識こそが、今日までの人間の歴史を支えてきたとも言える。が、

芦屋 楓の場合、みんな確かに察知は出来たが、それを容姿の“美”によるモノと勘違いしたのだ。

そうして人はその勘違いに羨望、嫉妬、崇拝など様々な感情を向ける。

 だが、俺が彼女に抱いたのはそんな脚色された感情ではなく、ただの違和感と不安だった。

 朝、後姿を見かけた時は不確かだったが、目の前で対峙して改めて実感した。

 そう、これはシエル先生を初めて目にした時の気味の悪さに似ている。

 表面を日常で覆ってはいるが、その内側にあるのは間違いなく、ラインの向こう。外側の世界だ。

 

「……、国見さんが発汗と発熱を始めたのは、私が来る少し前かしら?」

「…………」

「―――あぁ」

 

 問われたのは国見だったが、彼女は耳まで赤くして俯いてしまったので、俺が代わりに答えた。

内心の焦燥を悟られないように、できるだけ平静を装って。

 

「…………」

 

 と、返答後、なにやら考え込んでいた芦屋 楓は、ふと視界に入った国見の鞄に目線を落とした。そして再び黙考に入ったと思ったら、そのまま流れるような動きでホールの向こう。まだ雨が降りしきる外へと視線を薙いだ。

 どうやら何か気付いたようだ。

 答えが気になる。はやる気持ちを宥めながら、彼女に問うた。

 

「……どうなんだ。何か分かったのか?」

 

 だというのに、こちらを振り向いた芦屋 楓は俺を半眼で睨みつけると、額を押さえながら溜息を吐いた。しかも、その一連の動作はかなり堂に入っており、

 

 な、なんだろう。このいたたまれない気分は。

 

 物凄く自分が悪いことしているような罪悪感が湧いてきた。――が、今はそんな事はどうでも良いんだ。

 

「国見はどこか悪いのか? 対処法は?」

 

 すると芦屋 楓は、そうねぇ、と中空に視線を彷徨わせ、一つ一つ言葉を選ぶように話し始めた。

 

「結果からいえば病気は病気よ……」

「――――で?」

「…………」

 

 続きが肝心だというのに彼女は何故か口を閉ざしたまま。

 国見は病気なのに、ここまできてダンマリとは。こんなことをしている間にも病状が進行しているかもしれない。

 

「おい」

 

 苛立つ気持ちが語調を強めさせる。

 しかし、芦屋 楓は気に留めた様子も無く、わずかな逡巡の後、何事も無いかのように、あっさりと告げた。

 

「彼女と一緒に帰ってあげなさい」

「………………は?」

 

 思考が一瞬で灰へと還る。

 意思の伝達が完全に遮断され、ワケも分からず呆ける俺とは裏腹に、国見は弾かれたように驚きの表情を芦屋 楓に向けた。

 

「あ、あの、でも」

 

 慌てふためく国見。彼女にとっても芦屋 楓の答えは予想外だったようだ。

 しかし当の本人はというと、唇に意味ありげな笑みさえ貼りつけて、国見にウィンクをしてみせる。

 そして、それで何故かうろたえていた国見まで真剣な顔で頷く始末。

 一体二人の間で何があったっていうんだ。

 芦屋 楓のウィンクから国見が頷くまで、二人にしか分からない何かがあったようだ。

 国見はこちらに背を向けて大きな深呼吸を何度も繰り返す。

 その様子は、まるでこれから人生を賭けた一大決戦のために、気持ちを落ち着けているようにも見えた。

 

「おい、少し待――うっ」

 国見はれっきとした病気なんだ。(やまい)がそんな事で完治するなら医者はいらない。

 堪りかねて声が喉までせり上がるが、芦屋 楓のひと睨みで沈黙してしまう。例の呆れたような、憐れむような判別のつかない顔だ。

 理由は定かではないが、俺はこの表情に弱いみたいだ。

 自分の何が悪いか把握していないから、余計なのかもしれない。

 

「い、一緒に帰れば大丈夫なんだな?」

「ええ。間違いないわ」

 

 微笑む芦屋 楓に微かな安堵を覚える。彼女は恐らく医療経験があるんだろう。じゃないとあの手際の良さは説明できないし、嘘をつく理由も見当たらない。

 ならばここは素直に従うべきだ。

 俺も、それで国見の症状がマシになるなら文句はない。

 

「そ、そそそれじゃあ、橘さん」

 

 何回も深呼吸をして振り返った国見だが、特に改善された様子はなく、いつもの落ち着きのない動きに、肩の力が抜けていくのを感じた。さっきまで凝り固まっていた心が緩まるのと一緒に、口元に自然と苦笑がこぼれる。

 

「あぁ、帰ろうか」

「あ、はい! よろしくお願いします!」

 

 瞳を爛々と輝かせて、百階建てのビルから落ちたように、勢いよく頭を下げる国見。すると腰まである髪が重力に逆らって、大きく跳ねた。

そして彼女と並んで帰路につこうとした背中に、

 

「お気をつけください。――――橘様」

 

 雨音と生徒の喧騒に紛れて、暁の鶏声が投げかけられた。

 

「…………」

 

 俺が後ろを振り返ることない。

 きっと背後には、浮世離れした美貌の使者がいるから。夢の終わりを報せる使者が。

俺はただ、傍らにある日常(ゆめ)を離さないように、降りしきる雨の中、今確かに外界への一歩を踏み出した。

 

 

 

 

X