そうして洵一君と雨の道を歩く。

 さっきの激しい攻防と打って変わって今度は二人とも無言。しかし、退屈はしなかった。

 たったひと言が状況をガラリと変える敏感な戦局に緊張して気が気じゃないのもあったけど、肩が触れ合いそうな距離、パシャパシャと水溜りを踏みしめる音、ゆったりと流れていく時間が、世界に二人しかいないような錯覚を覚えさせた。

 でも、その幻が心地良い。

 バレないようにチラッと横目で彼を見上げる。

 一見服の上からじゃ分からないが、よく見れば彼の身体はとても鍛えこまれている。長身痩躯の身体は筋肉が無いのではなく、無駄な肉を削ぎ落として筋肉しかないのだ。

 おそらく幼い頃から鍛えられているんだろう。でなければあんなに自然な体つきにはならない。

 私も武術の経験が無ければ気付かないところだった。

 そして彼を語るうえでも、眺めるうえでも外せないのが眼。

 何かの病気なのか、洵一君の左目は何を捉えるでもなく、固定されたように固く閉ざされていた。

 古来から人は無いモノに興味を抱き、惹かれ、得ようとする。

 それが美しく、完成度の高いものならなお更だ。

 ならば、その隻眼が言葉に出来ない魅力を彼に与え、また、私達がそれに惹かれるのは当然なのかもしれない。

 

 まぁ、洵一君の場合は隻眼じゃなくても、格好良いけど……。

 

 心の中でこっそりと呟きながら、いつになく大胆になっている自分に気付いた。いつもなら嘘でもこんなことは言わない。――言えない。

 多分、コンディションが良いから、気持ちが大きくなっているのかもしれない。

 そうだとしても、今はそれで良い。――――いや、それじゃないとダメなんだ。

 私はこの戦の重要性を再確認し、決意を更に強固なものとした。

 そして、これは多分私しか知らない彼の秘密。

 彼の黒髪は、太陽のような強い光に当たったときだけ、かすかに赤みを帯びるのだ。

 とても些細なことだけど、私だけが誰も知らない洵一君の秘密を知っている。

 その事実がどうしても隠しきれないほど嬉しかった。

 

――――あっと、なにか、なにか喋らなくちゃ!

 

 いくら退屈していないといってもそれは私だけかもしれないし。

 交際経験のない私は、場の雰囲気を活かすテクニックなんて持ち合わせていない。

 ならば、ここは手数で勝負しないとお話にならない。

 雨に濡れた空気を吸い込んで、わずかな不安と緊張を払拭する。

 これが、……初采配だ。

 緊張の一瞬。

 

「あの、橘さん」

「ん? 国見、身体濡れてないか?」

「あ、はい。大丈夫です」

 

 そうか、と、どこか安心したように微笑む洵一君に、私は恥ずかしくなってつい視線を逸らしてしまう。

 初采配はあっさりと玉砕。

 

なにをやっているのよ私は!?

 ここで洵一君となにか喋らなくちゃ! ご趣味は? とか、血液型は? とか。これは神様がくれた一生に一度のチャンスかもしれないのに。これじゃせっかく気を利かせてくれた芦屋さんにも申し訳が立たない!

 今日の私は違うんだ!

 

 そう自分に言い聞かせ、もう一度アタックの態勢を整えて、

 

「橘さ――」

 

その矢先だった。言い切るより前に、洵一君の足が唐突に止まった。

つられて私も歩を止める。

洵一君は雨で視界の悪い前方に、まるでお化けでも見たような、驚きと疑問の混ざった表情をしていた。

彼の視線を追うと、確かに少し先から黒い傘を差した人物が私達に近づいて来ていた。傘のせいで顔は見えないが、その人は私達の前で足を揃えて止まった。

そして顔を隠していた傘が傾けられ、見えなかった顔が白日の下に晒さ――、

 

「――――!!?」

 

一瞬、私は目を疑った。

そこに居たのは女性。それだけなら驚く理由はない。だけど、その人はなんとメイドさんの格好をしていたのだ。

私の家も相当古いけど、メイドさんなんて初めて見る。洵一君の家はお金持ちなんだろうか?

失礼と知りつつも、好奇心が先立ってついジロジロと観察してしまう。

黒い一張らのロングスカートと、清潔感たっぷりの白いエプロン。頭にはレースのような飾りまで付けている徹底ぶりだ。

 

「悪いな。詩織」

「――――へ?」

 

それはまさに不意打ち。バックアタックだ。

次から次へと変わっていく戦局に頭はオーバーヒート。しかし、それでも戦闘本能だけはきちんと働いているらしく、今度は弾かれたように声の主。洵一君の方へと無意識に振り向いていた。そしてワケも分からないまま、洵一君と詩織と呼ばれたメイドさんを交互に見比べる。

 

知り合い? 下の名前で呼んでる?

 

私はさらに伏兵を凝視する。

肩まで垂れる緩くウェーブした髪。クッキリとした二重まぶた。ジッとこちらを見据えて揺らぐことのない瞳と、鋭い輪郭は本人の性格を表しているのか、全体的に無機質な印象を受けるが、完成された一つの芸術品を思わせる美しさがあって、思わず、

 

「……綺麗」

 

 そう呟いてしまうほどだった。

 彼女はきっと芦屋 楓さんと同じタイプ。唯一違うのは、芦屋 楓はバラの華やかさ。目の前の彼女はカスミ草の美しさだというところか。

 だが、二人とも思考がどれほど混線していても、緩慢になっていたとしても綺麗だという事だけは認識できる。それがどれほど異常なことか。

と、思わず目が離せなくなっていた私の前で、誰もが羨む美貌の持ち主が突然頭を下げた。

 

「申し訳ありません。お迎えにあがるのが遅れました」

 

 とても洗練された動きと声。だけど、あまりに完璧すぎて、理想的すぎて、人間としての温かみに欠けているような気がした。

それを裏付けるように、顔を上げた彼女には、何の表情も無かった。芦屋さんをついさっき見たせいだろうか。私には、彼女が人形か何かのように見えてしまった。

 

「いや、構わないよ。突然の雨だったしな」

 

彼女の迎えが遅れたことも、彼女の人間味に欠けた動作に関しても、言葉通り特に気にした様子のない洵一君は、私の方に視線を向けて、

 

「ここまで悪かったな。国見。こっから帰るわ」

 

 ありがとう。そう言って、メイドさんの方に歩み寄っていく。

 一方、メイドさんも洵一君が濡れないように、準備していたもう一本の傘を開いて、洵一君に手渡した。

 

「ホントに悪かったな、国見。……それじゃ、また明日」

 

手を振りながら歩き出した洵一君に、ブレーカーが落ちた私の頭じゃ上手く反応することが出来なかったようで、呆けた顔でただ手を振り返すしかできなかった。

帰っていく二人の背中を見ながらふと気が付いた。

洵一君の肩が濡れていることに。

私から帰ろうと誘っておいて、結局彼に気を使わせてしまうなんて一体何をしていたんだろう。

見る見るうちに洵一君との距離が離れていく。つい数分前まで、肩が触れ合いそうな距離にいたのに。

まだ頭が麻痺しているせいだろうか。不思議と悲しくはなかった。ただ、そっと洵一君にハンカチを差し出す彼女の後ろ姿を見ていたら、心が大きな何かに押しつぶされそうだった。

結局、自分は舞い上がっていただけなのだと痛感させられる。

 

「…………」

 

色褪せた夢の世界で、傘を叩く現実の音が、やけに耳障りだった。

 

 

 

 

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