武家屋敷、正確にいうのなら、俺と詩織の間に、取り決めやルールなどは設けられていなかった。

 ここでの暮らしが少し落ち着きはじめた頃、何かの雑誌で、熟年夫婦は共有の見えない憲法を制定している、という記事を目にする機会があった。

自ら望んだ事じゃないとはいえ、経験したこともない二人暮らし。

さっそくこれを参考にして、何かやってほしい事だとか、これだけは止めてほしい事がないか訊いたのだが、彼女は絶対零度の北極視線で、こちらを別の意味で凍りつかせると、不変の無表情でたったひと言、

 

「……何もございません」

 

即答されたら、自分の役立たずさ加減に嘆くところだったが、最近、言葉を発する前の、あの数秒の間は、思索したがゆえの空白ではなく、自分に気を使ってワザワザ少し待ったんではないかと思えて仕方ない。

そう考えて色々思い起こせば、俺はずい分彼女に気を使わせている。が、これも進歩する為の糧と前向きに受け止めよう。次からは、もう同じ事柄で彼女を煩わせる事がなくなるように。

 こうして詩織との間にルールは出来なかったのだが、今になってそれが間違いだった事に気付いた。ルールは自然と出来ていたんだ。

 それが予兆なのか、一時的な体調不良かは定かではないが、今日はイマイチ空腹を覚えなかった。だからといって、食べないわけにはいかない。

橘 洵一は朝食を摂る。

これがこの屋敷における日常(せかい)のルールだから。

 俺は第三者から“日常に属している”と認識されたまま、今回の件を片付けなくてはならない。

 悟られればきっとみんなを巻き込むことになる。介入意思の有無に関係なく。

 それだけは、命に代えても避けなければならない。

 アイツ等が非日常という名の黒影に飲み込まれる悪夢に比べれば、朝食を胃の中に詰め込むなんて、苦痛のうちにも入らない。

そうしてなんとか朝食を終え、今は登校のために詩織を伴って玄関へと向かって歩いていた。

 当初の予定では、俺の後ろに詩織はいないはずだった。彼女はまだ朝食の途中だったし、元々はこちらが無理を言って一緒に食べてもらっているんだ。そのまま朝餉を続けてもらっても良かったのだが、食べ終わった瞬間、寸分のタイムラグも無く、こちらを視界に納める詩織の圧力に、結局何も言うことができず、見送りをお願いしてしまった。

 縁側に敷かれた冷気を踏みしめながら、今朝の行動を思い返す。

 

 大丈夫。何度も反芻したが、落ち度は無かった。彼女に気付かれていないはずだ。

 

 起床し、自室を出てからこの時まで。彼女に現状を悟られぬよう細心の注意を払ってきた。

 自分が再現できる限りの橘 洵一を演じた。それで俺の全てを知っている彼女をどこまで騙せるかは分からない。でも、こうして予防線を張っていなければ不安になる。

 絶対知らないはずなのに、実はもう全てを見通してるのではないかと、いてもたってもいられなくなる。

――――つくづく、この日常(せかい)で自分は何も出来ないんだと再認させられる。

 

 靴を履き、見送り人の方を振り返る。

 

「ここまででいいよ」

 

 さっきは気が引けるとは言ったものの、冷めたご飯が美味しくないと教えてくれたのも詩織だし、やっぱりそんな不味いものを彼女に食べさせたくはない。

 だから、ここまで。一応彼女の気持ちも酌んだつもりなんだけど。

 

「……かしこまりました」

 

 想いが伝わったのか、なにを言っても無駄だろうと諦めたのかは分からないが、一瞬の沈黙の後、了承の言葉と共に詩織は理想的な動作で頭を下げた。そして、

 

「…………」

 

 無言の視線。秋の肌寒い空気に、互いの視線が混ざり合う。

 

 また始まっちゃったか。

 

 つい浮かびそうになった苦笑をなんとか噛み殺す。本人はいたって大真面目なんだから、笑っては失礼というもの。

 彼女はいつも見送る際、必ず最後にこうしてこちらをジッと見つめてくる。毎回見送ってもらっているから、ほぼ毎日の計算になるだろうか。

 普段の圧殺せんばかりの津波視線ならともかく、この眼差しはそういった類のものではなく、どちらかといえば……。

 

「――――」

 

 瞬間、心臓がひと際高く啼いた。同時に思考が一気に混線を始める。

 何故それに気付いたのかは分からない。勘なのか。それとも今だからこそなのか。 

 

 いや、重要なのはそこじゃない。

 

 肝心なのは彼女がこちらを“観察”しているという事実。

 文字通り“観察”。

 顔色。目の動き。汗。仕草。返ってくる反応まで。

 彼女はそれらいくつかの事項を確認し、俺の状態をチェックしている。理由は定かではないが、恐らくこれも彼女の仕事の一部なのだろう。

 もちろんこれは、あくまで予測であり確証はない。だけど、もし本当に観察していたら?

 現状はその数パーセントすらも許されない。

他の何を知られても、非日常からの侵食を知られたとしても、彼女に今の俺を知られるワケにはいかないのだ。

 表情一つ変えず、目線すら微動させず、こちらをチェックし続ける詩織。どこまで診られたのか、もう結論は出ているのかすら不明だ。

 さっきまでの上手くいっていた自分を頭の中で再生し、なんとか再演しようとするが、グチャグチャにこじれた思考は、まったくもってその役割を果たさなかった。

ただ自分に出来る事といえば、焦燥の汗に濡れる掌を隠し、動揺に高鳴る鼓動を必死に抑え込むこみ、歪な笑みを作り上げるぐらいしか残されていなかった。

 

 言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え、言え。

 

 このまま黙し続け、状況を悪化させる。――――そんな無様をさらす気は無かった。

 いや、本当はそんなことを考える余裕すらなかった。

 あるのは、彼女に知られたくない。

 その強迫観念だけが狭まった思考を突き動かしていた。

 

 どうかしたのか?と。

 

 そう言えば、普段から決して疑心を口に出さない詩織は、もう疑うことすらしない。

 そもそも、彼女に否定は存在しないのだ。ならば、これで全てが済む。

 たったひと言、掌ほどの息を吐くだけで、これからも彼女がこの“異常”に触れる事はなくなる。

だというのに、そのひと言が出ない。何度信号を送っても、身体まで伝わらない。

こめかみを伝う一筋の汗の冷たさが、心境の全てを物語っていた。

焦る気持ちを静め、今度こそ、とさらに決意を固めて、不自然じゃない程度に小さく、深く吸った息を吐き出した。

 

「どうか…」

 

 十分な酸素は取り込んだはずなのに、吐き出した言葉は理想とは程遠いものだった。掠れる喉。今にも瓦解しそうな言葉を必死にまとめて、嚥下できない唾液を懸命に飲み下して、

 

「したのか?」

 

 それをなんとか言葉に変換した。

 

「…………」

 当然彼女は何も言わない。ただ、無限に引き延ばされた時間の中で、色彩を欠如した無明の瞳が、失ったかつての(じぶん)を映し続けていた。

 

「…………」

 (おれ)も何も言わない。心臓は高鳴りを通り越して、不気味なほど落ち着いている。

 ここで不思議そうに首を傾げるなり出来れば最高なんだろうが、生憎そんな気の利いたことをする余裕はない。

 今はせいぜい唇の端を持ち上げるだけで精一杯だ。

 

「あれ? 俺の顔に何か付いてるか?」

 

 いつも自分の出す声色、浮かべる表情を必死に模索するが、意識すればするほど、声が震え、顔が形を失う。

 橘 洵一から、遠くなっていく。

 

君の瞳に俺はどう映っているのだろう。

 

「…………」

 

 すぐにでも、この視線から逃げ出したいが、ここで衝動に負けたら、それこそ全てが終わってしまう。

 今にも浮きそうな足を、揺れそうな瞳を必死に押し留める。

 

君に習ったとおり、ちゃんと笑えているだろうか。

 

「いえ、なんでもございません。――いってらっしゃいませ」

 

 いつものように頭を深々と下げた詩織。肩に垂れる緩くウェーブした髪が、重力の法則というにはあまりにも流麗に、肩からサラリと流れ落ちた。

 そして俺はいつも通り彼女に笑いかける。



「――うん、行ってくるよ」



――――これが、この小さな箱庭を支える礎だから。


司忌(しき)としてではなく、君が創ってくれた――――橘 洵一として。

 

「――――」

 

 混線した思考が再生した幻か。はたまた、消え残った理性の欠片が見せる残像か。フラッシュバックのように、山神 詩織という少女に、あの日の――――、

 

桜色の雪が舞う空を幻視した。

 

 

 

 

U