何だかんだと昔話やら、偉い人が残したお言葉やらを引用しておいて、最後は結局、カレーのお供にはライスが一番というワケの分からない結論に達した、シエル先生の生活倫理の授業が終わり、六限目が始まる間際のことだった。 「それじゃあ、次で今日の授業は最後ですけど、いいですか皆さん。権俵先生に迷惑をかけないようにしてくださいね」 「「は〜い」」 ニッコリと笑うシエル先生に、V−Cの幼稚園児達が一斉に笑顔で頷いた。主に男の子。 そしてその永遠の幼稚園児に女生徒達が突き刺す視線のなんと冷たいことか。おかげで教室の空気は今にも凍りつきそうだったが、すでに頭の中をお花畑でいっぱいにしている男子生徒達の中に、変化を察知できる鋭敏な者がいるわけも無い。男子と女子の反応は、まるで真ん中で線を引いたように対照的だったが、女性徒達は別段シエル先生を嫌っているワケではなかった。 ならば何が気に入らないのか。それは、シエル先生に微笑みかけられた程度で、この世に未練なし! とばかりに頬を緩ませる男子の態度だった。 鼻先で特大の放屁をされたかのように、不快な表情をしている女生徒はおよそ九割。 その中で大半の女子は“私達の前で、出来損ないの大福みたいに弛みきった顔になったこと無いかったよな?”と、借りた事もない金を貸したと言い掛かりをつける闇金業者以上にタチの悪い疑問符を浮かべていた。YesともNoとも言えない。どちらの先に待つのも地獄だけである。 しかし、元々そっち関係にはニブイのか、自分が作り出した男子と女子の温度差にまったく気付いていないシエル先生は、素直な男子生徒の返答に頷くと、 「はい。それではまた終わりのホームルームで会いましょうね」 眼鏡の奥にある目を満足げに細め、実に引火率の高い極上の笑顔を鉄火場にブチ撒けて、教室を後にした。 撒かれた笑顔の余韻を享受する男子生徒達の顔には、幸福というモノが具現化したような、満ち足りた表情で溢れており、実に幸せそうだった。……一方で、空気に漂う幸福を、まるで汚物か何かのように吹き返す女生徒達の顔には、不幸が具現化したような不機嫌面が、江戸時代の飢饉を超す勢いで蔓延していた。 あぁ、引火するのは時間の問題か。 第三者なら、誰もがそう確信したであろう。 が、それも、シエル先生と入れ替わりで、ツヤのある黒い革靴の足先が目に入るまでだった。 コツ、と革靴が床を踏み鳴らした瞬間、お花畑は絨毯爆撃を受けたように跡形もなく消え去り、教室全体の空気が一気に張り詰めた。 さっきまでの男子達の緩みきった顔はどこへやら。その人物が入室した途端、男子全員の表情が一気に引き締まり、まるで鬼軍曹を目の前にした二等兵のような、恐怖と規律の入り混じった実に凛々しい顔付きへと変化していた。女子も同じような感じだったが、二等兵達よりは軽症だった。 もちろん教壇に立っているのは軍曹なんて厳ついものではなく、数学の権俵先生なのだが、相手を射殺さんばかりの凶暴な光を放つ鋭い眼光と、スキンヘッドの頭。左寄りの額から眉毛を横断し、目尻まで下がる裂傷跡を見て、彼が何人殺めたかのを想像することはできても、教職に身を置く者だと看破できる人物はまずいない。 「……起立」 一体どこからそんな声が出るのか。ダンプカーのエンジン音より低く、オーケストラより重厚な声は、効き過ぎなぐらいドスが効いていた。それに加え、口調も平坦なもんだから、先生の威圧的な雰囲気が三割増しになっており、この声が耳にした幼子は、その日の夜、絶対悪夢にうなされるだろう。 しかし、それなりに分別がつくお年頃であり、一般人より危機察知能力に秀でているV−Cの生徒達が、権俵先生の言葉から呼吸するほどの間も空けず、一糸乱れぬ動作で立ち上がったのは言うまでもない。 「――礼!」 やけに気合の篭った委員長の掛け声で、一斉に頭を下げる。これまた猛練習したようなキッチリと節があって、実に理想的な礼だ。そしてイスに腰掛ける時まで、寸分違わぬ動き。 さっきまで真っ二つに割れていたとは思えない統率力である。 「…………」 背筋をピシッと伸ばして前を向く生徒達を、その巨躯から睥睨する権俵先生。 別に目が合ったわけでもないのに、彼の放つ高圧的な雰囲気は、生徒の額から冷たい汗を流させるには十分だった。 権俵先生本人に他意はなく、この睥睨もいつもの事なのだが、睨まれる方にとっちゃコメカミに拳銃を突きつけられているのとそう大差ない。 冷や汗ダラダラの生徒達の脳裏に浮かぶのは、権俵先生に関する本当かどうかも分からない、しかし真実味溢れる噂ばかり。 曰く、元ヤクザの組長で、殺しからヤクまで色々やったが、警察は報復を恐れて逮捕できないでいる。とか。 曰く、元マフィアのヒットマンで、要人殺しの容疑で国際指名手配されており、この学園で教師をしているのは身を隠すため。とか。 曰く、元アクションヒーローのスタントマンで、悪の組織のボスを倒すシーンで、撮影中にそのボスを演じていた役者の人を本当に殺してしまった。とか。 最後のはともかくとして、外面だけでも軍曹を跳び越え、ヤクザというカテゴリーに十分当てはまるのに、人間をレモンみたいに搾り殺せるんじゃないかと思えるぐらい太い腕と、カッターシャツのボタンを三つ開けてもまだ苦しそうな分厚い胸板が、ヤクザという称号の前に武闘派というさらに物騒な三文字を追加していた。 いくら三年間、あの反則なまでのヤクザ面を見続けたV−Cといえど、この反応は堅気の人間として当然と言えた。 が、実はV−Cの生徒達が真に恐れているモノが別にあった。 それは授業を疎かにしている不届き者に放たれる天罰。 放たれるというからには、必然的に権俵 源蔵の身体を媒介とするわけで。あのヘビー級プロレスラー並みの肉体から放たれるモノなんて、例えそれが綿であろうと凶器に変わる。 それで、もしチョークでも投げられようものなら……。背筋の寒くなる話しである。 そんな命の危険に関わるといっても過言ではない、危機的状況に直面しているにもかかわらず、橘 洵一は愚かにも思考を彼方へと飛ばしていた。 今日は何回かシエル先生と目が合ったけど、頭痛は無かった。なら、あの痛みはなんだったんだ? こちらを覗きこむ蒼眼を思い出すたび、頭を支配していた痛みが微かに息を吹き返す。 彼女は明らかに“殺し”を日常とする世界の住人。それは確かだ。しかも実力は少年より上。目が合うだけでそれが分かったんだ。その差は絶望を通り越して、一笑できるほどに深く、そして広いだろう。 だが、何より不気味なのは、圧倒的な力を持つ彼女が何一つ動きを見せずに日常に留まっているという事だ。――――いや、動きがバレるようでは二流なのだが、彼女の場合は動いた僅かな形跡すらない。 何かしら行動を起こせば、どこかに小さな変化が現れるはずなのだ。歳をとれば小さなシワが増え、運動すれば乳酸が溜まるように、動く=変化なのだから。しかし、外見どころか未だ態度にすら変化の無い彼女は、忠実に日常というサイクルを守り続けていた。 橘 洵一は今、“日常”を蝕み始めている“癌”を必死に喰い止めようとしている。が、現実は何かが起こるどころか、その前兆すらない。事件は起きなければ事件足りえないのだ。 ならば起こる前に察知すれば良い。 そう思って、まず一番身近にあった“非日常”シエル先生に目を付けたのだが……結果は言わずもがな。 社達を含め、クラスのみんなもシエル先生を慕っている。出来ればあんまり疑いたくはないんだけど……。 サイクルを守るということは、日常に順応しているという何よりの証拠。警戒する少年の心とは裏腹に、“異物”は見事に平和へと馴染んでいた。それこそ、表でしか生きる術を知らないような、優しい微笑みさえ浮かべる。 その笑顔が逆に少年を戸惑わせていた。 お日様のように柔らかく笑うことの出来る彼女が、ラインの向こう側の人間であるはずがない。と。 彼女がこのまま日常を壊さずに過ごす。もしくは去るというのならば、彼はそのまま彼女を、シエルに関しては目を瞑るつもりでいた。 例え埋葬機関の人間であろうと、吸血鬼であろうと、日常に順応するというのならば、日常を構成する大事な欠片の一つと受け入れ、命がけで守るし、去るというのなら、そのまま見逃す。 少年にとって大事なのは、今、目の前にいる人達が笑顔で生きられるだけの、箱庭の平和であり、それを阻害する者、乱す者、弊害となる者こそが敵。それが無垢な子供、か弱い老人でも関係ない。 眼前を過ぎ去る一瞬の景色を維持するために、なんの罪も無い他人の箱庭を壊さなければいけないのなら、きっと少年は躊躇いも、後悔もなく――――、 「――なぁなぁ」 行き詰った思考にたち込める暗雲を切り裂く声。 最初は動物の鳴き声かと思ったのだが、音の聞こえた隣を振り向くと、外ハネした髪形の狐……じゃなくて、関西人が教科書を盾に、ただでさえ細い目をさらに細くして、こちらに顔を向けていた。 「ん? どうかしたのか?」 洵一は呼ばれたから返事をしたというのに、声の主は気まずそうに目を伏せ、無言のままだった。 「…………」 「……黙ってちゃ分かんないって」 この言葉に感化されたのか、社はすぐに顔を上げ、チラッと教壇の方を窺い、権俵先生が黒板に数式を書き込んでいるのを確認すると、聞こえるか聞こえないかほどの声で言った。 「ちょっと放課後、部室で話しがあんねん」 「…………」 言葉とは裏腹に、社の眼には未だに戸惑いと躊躇が見て取れる。が、今度言葉を失ってしまったのは洵一のほうだった。 未だ手がかりすら無いとはいえ、彼には他にやるべき事がある。それは社が持ちかけてくる相談とは、危険度も、重要度も天と地ほどの差がある。――――いや、比べるに値しない。 彼の相談を断ったところで、このキャンバスが汚れる事はないのだから。だというのに、 カチ 「……分かった。カフェテリアでいいんだな?」 苦笑を浮かべながら彼は受けてしまう。少年にとっては社が持ちかける相談も、日常というパズルを構成するピースの一つ。ならば断るワケが無かった。 「ホンマか! 助かったわ!」 イスを蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がる社。彼の顔いっぱいに張り付く満面の笑顔を目にするたびに、少年は安堵する。 日常はまだここにある。自分はちゃんと“日常”を守れているのだと。 「ゴルゥゥアァァッ!!! 瀬那ァァッッ!!!」 突如響いた教室震わせるほどの咆哮。 「――――!!?」 声を上げる暇も無かった。 発せられた音の波が、一瞬で教室の端から端までを飲み込み、窓ガラスが割れそうなほどにガタガタと怯えていた。その直後、権俵先生の腕が一閃した。 そこいらのラグビー選手より太い腕から放たれた物体は、瞬く間に空気の壁を突破し、光を巻き込む小隕石となって、社の額を見事に捉えた。 ガコン、という少し危ない音が生徒全員の鼓膜と常識を震わせる。 「…………」 何事も無く立ち尽くす社。 時が止まった室内で、誰もが「へ、平気なのか?」と、首を傾げた次の瞬間、教室を満たす静寂を破る、カラン、と何かが落下するマヌケな音が響き渡った。 まるでそれを合図にしたように、社は音一つたてることなく、スロー再生のようにゆっくりと、マネキンを軽く倒したように、直立不動のまま背中から豪快に倒れた。そのままピクリとも動かない。社の切れ長の目から覗く眼球に、黒目が見えない。どうやら完全にオチてしまったようだ。 彼をマネキンへと変えた小隕石が、寄り添うように社だったモノへと転がって止まる。 返事が無い。ただの屍のようだ。 転がってきたモノをよくよく見みれば、人差し指ほど白い円筒は、どこをどう見てもチョーク以外の何物でもなかった。 チョーク一本で人の意識を刈り取れるのか? あまりに現実離れした光景に誰もが言語を失う中、水越だけが慣れた動作で、生きる屍の傍らにしゃがみ込み、その生モノをシャーペンで突っついていた。 「おーい、生きてるかー? 死んでるんだったら、それはそれで別に良いんだけど」 誰しもが戸惑うであろうこんな光景も、少年にとっては、守るべき欠片の一つ。 自分を陽の下に立たせ続けてくれる、日常という名の奇跡だった。 |