「こんばんわ。みなさん」

 

 眼鏡の奥にある蒼い瞳を柔和に細めて、にこやかに微笑むと、“異物”はまるで初めからそこに存在していたかのような自然な動作で“日常”へと歩み寄った。

 そして自分の分のパイプイスを用意してくれた政彦に礼を告げると、そのままイスにゆっくり腰掛けた。ギシッと、彼女の重さにイスが不満の声を上げる。

 女、シエル先生は初めて見たときと同じ、黒いセミロングのスカート。白いブラウスの上に白衣という出で立ちだった。

 それは確かにここ数日で見慣れた姿。しかし、彼女の端整な顔に目を奪われた、朝風の如く清涼な声に耳を傾けた。という明白な記憶が存在するのもここ幾日。

彼女は俺が転入して来る前から、咲秋学園に勤めていたという、社たちとの記憶の矛盾も含め、なにより、今もなお頭の芯を蝕み続ける痛みと、左眼の疼きが訴え続ける。

 目の前にいる女は自分の傍にある、最も確かな“異物”なのだと。

 

「え〜と、どこから説明した方がいいでしょうか」

 

 顎に右手を添え、なにやら真剣に考え込むシエル先生に、俺を含めた四人の視線が集まる。それは彼女が何を言い出すのかという興味からか。もしくは教師という肩書きがそうさせたのか。

他の三人の思考は推し測りかねるが、俺が向けたのは疑心と当惑の混ざった、紛れもない敵意だった。

 

 この女……いつの間に中へ入ったんだ?

 

「……水越さんは幽霊の類は嫌いですか?」

「幽霊ですか?」

 

 彼女への警戒を緩めず、部室という“密室”で、唯一外界へと通じる扉へと目線をズラす。

 あの時、みんながシエル先生の方へ一斉に振り向いた際、彼女の背後に廊下と部屋の前を横切った女生徒が見えた。

部室には窓もあるが、それこそありえない。俺と水越の位置から窓は全部見えているんだから。間違いなく扉は開いていた。薬物中毒でもない限り、見間違いはない。

 

「う〜ん。……好きなほうじゃないかも」

「理由はありますか?」

「だって、不気味じゃないですか」

 

 ならば、いつ開いた?

 

 俺と水越から窓が見えていたように、反対に座っていた政彦と社からは扉が見えていたはずだ。――――いや、政彦は社の方を向いていたし、社にいたっては目を伏せていた。見逃した可能性も否定できない。

 そうすると、当然の帰結として、さっきの“俺と水越は窓を視界に納めていた”という証言も怪しくなる。ずっと注視していたワケではないのだ。

窓を視界に納めていたのはあくまで、社の話を聞くうえで勝手に入ってきた映像。人物画の背景とさして変わりない不確かなモノ。――――だが、断じて見紛いはない。確信以上の絶対的な自信がある。だって……、

 

――――周囲の環境に気を許した事なんて一度もないんだから。

 

 社の話から始まり、シエル先生の存在に気付くまで、どんなに長く見積もっても七分〜八分。仮に初めから居たとしても、その間、室内に居たのは俺だけじゃないんだ。

部室に居た全員が、七分〜八分間、彼女の気配にすら気付かない可能性は無に等しい。

 部屋に身を隠せるようなスペースも、障害物も無い。

 やはり残るは途中から部屋に入った。

 これが一番現実的になる。

 だが、どうやって音も鳴らさずに扉を開けたんだ?

 話していたのは、少なからず他人に聞かれては困る話題だ。特に教師には。

 だから、わざわざ人気の無い部室という場所を選んだのだ。

 全然意識していないところからコンタクトを取られたら誰だってビックリする。静寂の中の物音もコレに分類できるといえるだろう。

 社が喋っている時、誰もが聞くことに夢中で周囲からの接触に気を配っていなかった。だからこそ彼女が声を発した際に、あれだけ驚いたんだ。

 しかも、こういう秘密の話しをする場合、大概の人は心の中に、後ろめたさを抱える。

 自然と、周りの異変に敏感になる。

 

「そうですね。人間はいつも見えないものに畏怖を、もしくは尊敬の念を抱きます。

 しかし、多くは恐怖です。幽霊しかり、空想生物しかり、神様しかり、です。今回の依頼はまさにそれなんです」

「あ、あの〜、すいません。私、頭悪いんで、も、もうちょっと噛み砕いてください」

 

 だが、シエル先生が俺達に声をかけるまで、誰も異変に反応した様子は無かった。つまり、

 

「つまり、以前あなた方が解決したストーカー事件のように、きっちりとした犯人像があるなら対処も出来ます。相手は目に見えるんですから」

 

 あの時、俺達以外に物音がする要因は無かったんだ。

 

「被害者に好意を持っている者ならば、被害者を囮にして犯人を捕まえればいいんです。

実際、橘君たちはそうしたんじゃないですか?」

 

 非難、というよりは真摯な眼差しをこちらに向けるシエル先生。その先にいた俺は言葉を紡がず、ただジッと蒼い瞳を見返した。

 

「…………」

 

 無言の意味するところは肯定。

 確かに俺達は、依頼者の女の子に一人で夜道を歩いてもらい、その子の後を尾けていた犯人を捕まえたのだ。

 言葉にしなかったのは確かにシエル先生の言うとおりだったから。だが、彼女の瞳を睨み返したのは深まった困惑と猜疑心から。

 

 なんでこの女はそんな事まで知っているんだ? 

 

 こういうのも何だが、“瀬那組”の面倒事解決屋としての活動は学園で広く知られている。学園内での聴き込みをした事もあるくらいだ。それゆえ、事件が解決するたびに、その噂を聞きつけた別の生徒が、また依頼にやってくる。

しかし、前回のストーカー事件は、被害者の申し出でから、おおやけな捜査はしなかった。

 自明の理として、解決手段は限られてくる。だから、被害者を囮にするという手荒な手段を選択したのだ。

 事件が長引けば、自然と周囲に露見する可能性が出てくる。事件に関わっている時、自分達は“日常”から離れているのだ。完全にはバレなくとも、違和感は覚えるかもしれない。

 そしてそれは被害者の懸念にも通じる。

 したがって、行動は速やかに行わなければならなかったし、その後、口外もしなかった。

 俺以外の人物が洩らした可能性も捨てられなくはないが、社たちが自分から喋るという事はまず無い。意外かもしれないが、アイツ等はちゃんと守秘義務を守る連中だ。

 秘密だといえば、本当に大事なことは絶対に言わない。

 被害者は問題外。

 ふと、頭の中に一つの可能性が浮かんだ。

 

 こうは考えられないだろうか。

俺達が侵入に気付かなかったのではなく、シエル先生が俺達に気付かせないように入ってきたのではないか?

 もし、彼女の実力が、比べるのも愚かなほど格上ならば、ありえない話しではない。

 そして彼女が情報収集能力に優れていない。なんて確証はどこにも無いんだ。

 例え調査力が無くても、情報収集を生業としている連中はいくらでもいる。ソイツ等から情報を買えば済む話しだ。

 

 数々の疑問とその答えが、折り合いをつけたはずの疑念を膨張させていく。

 

「ですが、今回の相手は文字通り“視えない”んです。

なんたって西原くんのお兄さんが勝手に畏縮しているだけですから。

 しかし、お兄さんは食事も睡眠も儘ならないほどという状況から、単なる被害妄想とも思えない」

「うん、そう言われてみれば、そんな気がしないでもないけど……ちょっと待ってよ。

それと、アンタ達が依頼を受けないのとどんな関係があるのよ」

 

 首を傾げて、政彦と社に疑問の視線を向ける水越。

 良かった。彼女がこっちを振り向かなくて。

今、自分がどんな顔をしているのか、自分でも分からないんだから。

 

「大ありですよ。特に彼らの安全面で。

 いいですか。さっきも言ったとおり、西原くんのお兄さんは食事も睡眠も取れないほど追い詰められています。

 人間は多少精神に異常をきたしとしても、どちらかは必ず取るものなんです。どちらも生きるという行為の中で絶対必要なものですから。

だけど今回の場合、その両方がおぼつかないほど精神が衰弱している。

犯人は人間にそれほどの痛手を負わせる事のできる危険な人物なんです。下手をしたら今度は彼らが、その状況に置かれるかもしれない」

 

自分を見据えるシエル先生の表情が、声音が真剣であればあるほど、水越は言葉を失い、事の深刻さを理解する。

まさか、引き籠り復活作戦がここまで危険な問題だとは思ってもいなかったんだろう。

だが、それも仕方のない話しだ。

恐らく水越以外の一般人がこの話を聞いても、彼女と同じ疑問に行き当たっている。

こんな隠れた危険性に気づけるのは、社や政彦のように何度もこういう話を聞くか――。

 

「…………」

 

 不意に今までの真剣な眼差しを崩し、表情を明るくするシエル先生。垣間見えていたはずの“非日常”が霧のように消え去り、“日常”へと形を変えた女の横顔をジッと見据える。

 

――――ラインの向こう側を常としている人間しかありえない。

 

「と、まぁ、ここまで言えば分かっていただけと思いますけど、社君達もそんな危ない事ばかりしてないで、少しは勉強に精を出してください。特に社君と水越さん。

 小テスト……ヤバめですよ?」

 

 ぐはぁ!と目に見えない血を吐く社と水越。二人のリアクションに、いつもの困ったような苦笑を張りつける政彦。

 すっかり“教師”の顔になったシエル先生は、教え子の平和な苦悩に、なんとも意地の悪い笑みを浮かべていた。呼応するように、室内の締め上げるような緊張が弛緩していく。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれや。――洵一と政彦はどうやねんな」

「だ、大丈夫よ。政彦と洵一だって一緒に依頼してたんだから、こいつ等だって……」

「――橘君と守城君ですか? 二人とも合格ですよ?」

「「ぐはぁ!」」

 

 再び吐血するバカ二人。

 いつもとは少し違う。だけどいつも通りの光景に思わず頬が緩んだ。

 

「…………」

 

肌を包む暖かな空気に部屋を見渡してみれば、西日が窓から差し込み始めていた。窓の向こうには余命いくばくも無い太陽。

その僅かな残火は、室内の全てを平等に赤く染め上げていた。

自分達を包み込む柔らかな光に気付いているのかいないのか。四人ともお喋りに夢中だった。話題も依頼から小テストへと変わって――――、

 

カチ

 

「――――」

 

 どうしてそうなったのか、原因は分からない。――――その音が響いた瞬間、思索するという結論にすら辿り着かなかった。意識が真っ白に漂白されていた。

 ブレイカーを落としたように、世界から音が消失し、視覚だけが、楽しげに言葉を交し合う、四つの笑顔を。照らす光彩までを鮮明に映し出す。

 それでもやっぱり……声は聞こえない。――――聴覚が。

見守るように部屋を満たしていた陽射しの暖かさも感じられない。かといって身を震わす寒さも無い。――――触覚が。

頭の隅に居座っていた微痛も消え、左眼の疼きも、眼球が消えてしまったんではないかと思うほど、僅かな残滓も残さずに霧散していた。――――痛覚が。

視覚を残して、全ての感覚が死んでいた。“橘 洵一”が透明になっていた。

ただ、――――遠かった。

自分もその輪の中に居るはずなのに、すぐ傍にその光景はあるはずなのに、手を伸ばしても届かないのではないか。

自分と目の前の友人達は住む世界が違う、相容れないものなのではないか。

そんな小さい、それでいて“橘 洵一”という存在を掻き消すに十分な雫が、闇よりも深い場所に浮かぶ空っぽの心にポツリと落ちた。

 

お前達に、俺は見えているのだろうか?

 

それはまるで“日常”という名の映画でも観ているようだった。

舞台に立っていたはずの役者は、いつの間にか観客へ。

三つの欠片と、異物の交わりを“確かに外側から眺めていた”

だが、それもやがて薄れていく。映像は霧へ。霧は幻へ。徐々に、徐々にボヤけていく。

溶けゆく、もう認識範囲を逸脱し、何の感情移入も出来なくなったはずの“夢”なのに、思考は忘れてしまったはずなのに、紅い煉獄で確かに生きた輝きを放つ光に、まるで水が染み込むかの如く、やがて理解してしまった。

 

『――――あぁ、そうか……』

 

 数十年ぶりに出したような、懐かしさを伴う声は、しかし合成音声のように味気ない。

 迷宮から抜け出した意識がスクリーンの中へと戻っていく。と同時に、オチていた全ての機能に灯が入った。

 

「シエル先生」

「どうしたんですか? 橘君」

 

 蒼い双眸の中に“橘 洵一”がいる。そしてその向こう。窓の中で生まれた三人目の“橘 洵一”の首元に掛けられた赤い、血のように紅い刃紋を刻んだ、真っ赤な死神の――――、

 

「俺……、今回の依頼を受けようと思うんです」

 

 光が明滅するように、シエル先生の表情が一瞬で険しくなる。再び“日常”が影を潜め、“非日常”が微かに顔を出す。

 彼女が何者かは分からない。だけど、彼女はもう“異物”ではない。

社達と共に笑いあう彼女のお日様のような笑顔は、もうこの小さな箱庭に欠かせない欠片の一つだと気付いたのだ。

 

「おいおい、シエル先生の話を聞いてなかったんか?」

 

 社の顔はおどけているが、目が笑っていなかった。言葉の端々から滲む、橘 洵一を揶揄するニュアンスが、この依頼の危険性を示唆している。

 

「そうよ。止めときなさいよ」

「そうだよ、洵一。これは明らかに僕達の手に負える依頼じゃない」

 

 素直に危惧を表面に現す水越と政彦。

 必死にこの依頼の異常性を伝えようとしているらしいが、そんなもの、社の話を聞いた瞬間、誰よりも先に理解していたさ。そして、断る気も無かった。

 

偶然、手に入れた世界。

それが二度目の奇跡なんだと気づいた時、

心から嬉しくて。

 

「だからだよ。俺達の手に負えないほどの依頼だ。それに比例して相手も困ってるはずだろ? だったら助けたいんだ」

 

淡いオレンジに浮かぶ世界は本当に些細で、脆弱で。

視線を巡らせればどこにでもある、ありふれた情景ばかりだった。

……でも、だからこそ、守りたかった。

 

 きっとこのまま依頼を断って、西原兄が最悪の結末を迎えた時、社も政彦も水越も悔やむだろう。

 何故あの時、依頼を聞いておきながら行動を起こさなかったのかと。もしかしたら助けられたかもしれないのに、と。

 でも、それはみんなが悪いんじゃない。下手をすれば命を落としていたのはこっちなんだから。

 だけど、そんな理屈に関係なく、コイツ等は後悔する。己の至らなさに唇を噛む。

 結局、最後には打算も我欲も放棄して、他人のために苦労を背負い込む。そんな連中だから。

 息を切らした分、他のヤツよりも幸せにならなくちゃダメなんだ。

 心をすり潰した分、他のヤツより笑っていなくちゃいけないんだ。

 俺は別に世界を救おうなんていうんじゃない。

 ましてや“正義の味方”なんて、矛盾した存在になるつもりもないし、その器も持ち合わせちゃいない。

 ただ、目の前にいるコイツ等に、

 

笑顔でいて欲しい。

 

「それなら僕らも――――」

「ダメだ。今回、依頼を受けるのは俺一人だ」

 

 俺は偶然、いくつもの巡り合わせの末にここにいるだけ。いわば人里に迷い込んだ獣だ。

 でも、俺が入り込む前からあったこの箱庭なら、例え俺がいなくなっても大丈夫。全ては最初に戻るだけ。

――――いや、変わりもしないだろう。周囲に影響を与えられるほど、俺は“日常(ここ)”に相応しい人間じゃなかった。

 

「さぞかし……、俺らを納得させるご大層な理由があるんやろうな。洵一」

 

 目を伏せ、ひと言ひと言、感情を抑え込むようにして言葉を紡ぐ社。

 普段の飄々とした態度とはまるで別人の鋭い語調が、真っ直ぐ、心の内の全てを叩きつけるように最短で、橘 洵一という存在を射抜いた。

 

 相当……怒ってるな。

 

 普段、水越との喧嘩で発露する見せかけの憤怒ではない。

 社の瞳に湛えられた決壊寸前の怒りを、醒めた思考が冷静に読み取る。

そのまま隣に視線を移せば、政彦の方はまだ何か言いたそうに、何度も喉を上下させている。この様子から察するに、どうやらまだ説得を諦めていないようだ。

隣に座っている水越も呆れているのか、右手で渋面を覆って、はぁ、と溜息を吐いている姿が横目に窺える。

三者三様。それぞれが、危険と知りながら、なおも愚行を犯そうとする橘 洵一に怒り、戸惑い、呆れている。

と、すんなりと心の内を読めたのは三人だけだった。

 

「…………」

 

 目線を一ミリたりとも動かさず、意識だけを白衣の教師へと向ける。

彼女を印象付けているといっても過言ではない髪は、橙色一色に染まったキャンバスの上にあって、なお青く、そのすぐ下。

硝子のレンズの向こうで、髪よりもさらに蒼い色彩を放つ瞳は、受諾を告げて以来、ずっと沈黙を守っていた。

 表情、挙動、汗、目の動き。

 どれを測っても、彼女の奥にある真意を読み取ることができない。

 今朝と類似した状況のせいだろうか。

 彼女も自分と同じく、彼こちらを観察しているのでないか。そんな、なんの裏づけも無い予測が、最有力候補として脳裏に浮かぶ。

 少し前ならば、ここぞとばかりに疑心暗鬼に陥り、化けの皮を剥がしてやろうと躍起になっていただろう。でも、今は違う。

 我が身を代償に守るべき欠片の一つ。

 

 

苦しんだり、悲しんだりしている顔は見たくないから、

共有するのは喜楽だけでいいから。

 

 

俺はこれを言わなければならない。

 

 

「お前らには無理で、俺には出来るからだ」

 

 

 

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