橘君が去って、部室に広がった空白。

 残された誰もが禁じられたように口を噤み、それぞれ思考の海へと沈んでいる。

 一人減ったはずなのに、室内はどこか息苦しい。

そう感じるのは、私だけが自己の世界へ埋没していないせいだろうか。それともまだここに馴染んでいない“異物”だからだろうか。

 判断はつかない。

 

「橘君って、いつもあんな感じなんですか?」

 

 社君の肩がピクリと反応するが、特に誰かに向けて発した言葉ではなかった。

 橘 洵一に関しての情報は、この街を訪れた夜に、ここ数日の調査で十分に集まっている。

それでも何かに気を逸らさなければ、室内を覆う重い空気に耐え切れなくて、つい口を開いていた。

 

「…………」

 

 こちらの言葉に反応したはずの社君は、窓枠に切り取られた校庭に視線を投げたまま無言。差し込む夕陽が彼の不機嫌な横顔を、視線の先にある校庭を、室内を紅く燃え上がらせていた。

 

「いつもは落ち着いているんですけどね」

 

 時々ああいう風になるんです。と、答える守城君もまた、心ここにあらずといった感じで。

 彼……いや、水越さんも含め、それぞれ胸の内に湧いた感情こそ違うものの、全員が橘君の行動に思うところがあるようだ。

 そして私の中にも、

 

お前らには無理で――――

 

 記憶に刻まれたのは、言葉の成す意味からではなく、これを紡ぎだした宣告者自身から。

 

俺には出来るからだ。

 

 何故彼はあんなにも哀しそうな顔で告げたのか。

 もし橘 洵一を知らない第三者がいて、告げた際の彼を見ていたら、その人は私の抱いた感慨を否定するだろう。

吐き出す言葉に根拠はなくとも、彼の表情が、雰囲気が、仕草が、0.1%の論理すら含まれていない事柄をも、確証へと変える。

それは中身の無い自意識過剰ではない。カリスマ性。そんな安易な言葉でも言い表せないほどの何かが、彼にはあった。

 そして今回もそう。

 非情な宣告に偽りはなく、彼ならばどんなに難しい依頼をもやってのけるに違いない。

 だが、どんな事も不可能ではない。それを誰よりも知り、絶対の自信を持つはずの橘君の黒瞳は何故、あんなにも不安に揺れていたのか。

 今にも泣きそうで。壊れそうで。それでも、瓦解しそうな気持ちを決意で塗りつぶして、友人達を突き放して。一体何が彼をそこまで必死にさせるのだろう。

 例えば、社君達を切って捨てた場面。

 友人を危険から遠ざける為、あえて侮辱するという場合はある。だけど、それは庇うべき友人達が依頼を受けている事が前提条件であり、明確な答えこそ無かったものの、社君達が依頼を断ろうとしていたのは明白だった。

 つまり、彼が依頼を受諾する必要性は無かった。にもかかわらず、彼は受けた。

私には、橘君の行動原理が理解できなかった。

 

「橘君って、皆さんといる時はどんな感じの人なんですか?」

 

 だんまりを決め込んだ社君は問題外。かといって、聞いているかどうかも怪しい水越さんでは心許なかったので、今度は守城君に直接訊いてみた。

 これも任務のための情報収集……いや、違う。

私は彼の歪な在り方が気になりだしている自分に気がついた。

 

「普段はわりと冷静っていうか、僕らのやり取りを遠くから視ている感じです」

 

 橘君と初めて顔を会わせた日が脳裏を掠めた。

 最初は友達を守ろうとしているのだと思った。生活の場を踏み荒らそうとする、私という“異物”から。

 もちろんそれもあるだろう。だが、彼の瞳の奥には、友に非常な宣告を告げねばならぬ悲哀や不安以上に、小さく、でも確かに執念の火が灯っていた。そしてその火が彼の決意をより強固なものにしているのだと気づいた時、同時に執念の源が一体なんなのか。

 恐らくそれが、私が情報で知り得た“橘 洵一 司忌”との大きな誤差を生み出しているに原因に他ならない。

 

「客観的って事ですか?」

「客観的っていうのは言いえて妙ですけど、微妙に違うというか、洵一はどちらかと言えば観測者なんですよ」

「観測者?」

 

 観測者とは、目標の動きや変化を観察し、自身の考察と照らし合わせて判断を下すもののことをいう。しかし、それならば客観的視点とそう変わらないのではないかと思う。

 それに、観測者なら“視る”ではなく、“観る”になるはずだ。

 

「本来ならば観測をして、そこに自分の見解や倫理観を当てはめて行動を決定します。

 だけど、洵一の場合、観測して終わりなんです。そこから行動するという事をしません。

 まるで、僕らから何かを吸収しているみたいに」

 

 橘君が彼らから何を得ようとしていたのか、橘君の過去と今を知っている私には何となく分かる気がした。

 でも、だからこそ理解できない。

 友人達を突き放したワケが。そうして結局、最初の地点に戻る。

 橘君の行動はピースの欠けたパズルのようだ。何か一つが抜けているせいで、ボンヤリとしか全体像を掴めない。多分、残ったその一つが、絵を完成させるために最も必要なピースであり、それがはまらない限り、絵が明確な輪郭(いみ)を得ることはないのだろう。

 

「だから当然というか、洵一はかなり受動的で、自分からあまり行動を起こすという事をしないんですが、時々あんなふうに一人で行動するんです」

 

 僕らの手に負えないような依頼があると。守城君は微笑むような、困ったような、なんとも曖昧な表情をしていた。普段から彼はこんな顔をすることが多い。第三者から観ても、この集団を引っ張っているのは、社君と水越さん。しかし、暴走するのもこの二人。自然とブレーキ兼被害者の役割を担うことになった守城君が、複雑な顔をするのも仕方の無い話なのかもしれない。

 でも、見る者が見れば分かる。社君と水越さんがどれほど引っ張っても、守城君がどれほど上手くまとめても、最終的に判断を下しているのは橘君だと。

 

「あー、もう! なんか洵一のアホのせいで、むっちゃ気分悪いわ! 今日は解散や!解散!」

 

 守城君の最後のひと言が引き金になったのか、社君は苛立ちを爆発させて、ズカズカと大股で部室を後にした。彼の心中がどれほど荒れているか、必要以上の力で閉められた扉の悲鳴が代弁していた。

 あっという間に社君の姿が見えなくなって、計ったように、今まで黙していた水越さんがボソッと呟いた。

 

「悔しいのよ。力の無い自分が」

 

 ドアから水越さんの方へと視線を流す。

 そこにいつもの明朗快活な水越さんの姿は無く、紅の夕陽に浮かぶのは、呆れたような、感情を押し殺したような、見る者が思わず息を飲む、そんな表情だった。

 

「どんな危険な事でも洵一って上手くやるからさ、危険だけ全部洵一に押し付けて、おいしいところだけ共有して友達づらするのが我慢ならないのよ。

それなら依頼を断ればいいのに、あいつも洵一と同じぐらいお人よしだから、結局依頼を受けてしまう。それで解決が難しいとまた洵一が一人で上手くやってみせて、あいつは自己嫌悪――――これの繰り返し。

楽しいことだけ共有しているからって、ハリボテの友情とは限らないのに」

 

 本当にバカよね。と水越さんは自嘲気味に笑う。

 

「……っと、私もそろそろ帰るわ」

 

 喋りすぎたとばかりに、そそくさとイスから立ち上がる水越さん。じゃあね、と手を軽く上げて去っていく彼女の背中に、

 

「それではまた明日」

 

手を振り返しながら、私は彼女の自虐的な笑みを思い出していた。

 荒事で最終的に必要になるのは力。身体能力と言い換えてもいい。

 互いが無手で対峙した時。片方に設計図を見ることなく核兵器を造れる知能があったとしても、必ず製造という工程を踏まなければならず、篭めればすぐに効果を出す力の前には膝を折ってしまう。

 どんなに卓越した頭脳でも、それは内側にしか働かない。外部に働きかけようするならば、やはり力に頼らなければならない。

 そして古来より力に限っては、男性と女性の間には越えられない壁がある。並大抵の研鑽では越えられない高い壁。

 日常を生活の場とする水越さんに、その努力を求めるのは、あまりにも酷な話しだ。

 女であるが故の覆せないハンディキャップ。

 社君以上に何も出来ない自分に、彼女もまた自己嫌悪しているのかもしれない。

 

「みんな、友達想いなんですよ」

 

 そう言って微笑む守城君もまたどこか寂しげで、だが同時にそれは真実であり、真実であるがゆえに四人は苦悩する。

傷つけることでしか友を助けられない自分に。

傷つけられることでしか友を助けられない自分に。

 でも、それは仕方ない。

 彼らと橘君は元から立っている位置が違うのだ。

 橘君が立っているのはボーダーラインの向こう。彼は私と同じ、日常の対岸、“非日常”という岸に立つ彼岸人なのだから。

 人間とチンパンジーの脳構成の違いはわずか1%。しかしその1%が二つの種族の繁栄に大きく差を付けたように、橘君と社君達のたった一つの違いは、彼らの間に絶望的なほど広く、深い溝となって横たわっていた。

 彼を、橘 洵一を知るためには行かねばなるまい。

 橘本家へ。

あの場所には――――橘 洵一の全てがある。

 

 

 

 

Y