早朝、白んでいた空がようやく青一色に落ち着こうかという頃、部外者である俺は、正門から眼前に佇む要塞をジッと見上げていた。

 無論、こんな日本のど真ん中に本物の要塞なんぞあるわけがなく、目の前に建っているのは、国立欧州医科大学という医療専門の単科大学なのだが、要塞という比喩もあながち的外れではなかった。

敷地の広さこそ咲秋学園に及ばないものの、目の前に傲然とそびえ立つ校舎は見るものを圧倒し、装飾性の無い鉛白色の無骨なコンクリートの外壁が、存在感をさらに強烈にしていた。その佇まいはまさに名門大学の名に恥じないものだった。

 そしてなぜ俺が、まだ生徒も登校してこない平日の朝から、しかも咲秋学園ではなく、名門医科大学の前に立っているかというと、それは他ならぬ依頼の為である。

 社から依頼を聞いた翌日の日曜日。

早速、学生課で調べた西原家の電話番号に電話をかけると、依頼者、西原 隆之とその日のうちに会う約束を取り付けた。

 連絡から数時間後。

今日も仕事を終えた太陽が地平線の向こうに消えようかという間際。

約束時間から少し遅れて、西原 隆之は待ち合わせ場所の喫茶店に現れた。

俺とテーブルを挟むカタチで腰掛けた少年は、どこか沈んだ顔をしており、纏った暗い雰囲気からも、件の深刻さと早期解決の必要性を再認識させられた。

肝心の話した内容だが、おこなったのは依頼の再確認といくつかの質問。

 まず依頼内容だが、これは社から聞いたものと大差は無かった。

 続いていくつか質問したのだが……今後の事もある。今、出揃っている情報を整理するか。

まず一つめの質問は、被害者の西原 伸宏の現状。

まぁ、現状もクソも、被害者が部屋に閉じこもってたんじゃ、確認のしようがないし、この結果を事前に予想してなかったわけでもなかった。それでも、徐々に追い詰められていると判断するのが妥当だろう。

 二つめは、西原 伸宏の変調が始まった時期。

 これには少し期待していたんだけど、大学という所は高校とは違い、拘束時間が少ないためかなり自由がきくらしく、西原 伸宏がいつ家にいたのかは、家族でもよく分からないらしい。

 また、最近では食事も友人達と摂ることが多く、外泊もかなりしていたようで、顔を合わせる回数も極端に減っていたそうだ。

 どうやら西原家は、俺が教えてもらった“家族”という単語には当てはまらない、特殊な家庭のようだ。

 とりあえず、主要な質問はこの二つ。後は世間話程度の、さほど重要ではない質問をいくつかして、その日は終わったのだが、なにしろ重要な質問が二つとも空振っている。いささか骨折り損な気がしないでもなかった。

 そんでもって次の日の早朝。つまりは今日。

 さっそく西原 伸宏が通う医科大学にやって来て、今に至る。

 もちろん俺が学校をサボっている事を詩織は承知している。

 二日前から彼女とは気まずくなっているものの(まぁ、俺が一方的にだが)、一緒に暮らしている限り、いずれバレるのは目に見えている。だから、何をしているかだけは告げずに、学園を休むという旨だけを伝えてあった。

 わざわざ俺がそんな事しなくても、詩織が俺の行動に興味を示す、疑問を持つ、口を挟む可能性なんて皆無なのだが、こう……どう表現したらいいんだろう。

 詩織はウチの家事を一手に担ってるし、もしかしたら帰宅が遅くなることがあるかも――否、俺は知っている。どんな屈辱を受けようと、辱めを一身に受けようとも、彼女は不平を洩らさないという事を。

 だって、俺が詩織の……、

 

カチ

 

 それは偶然か、はたまた警告なのか、頭を抉る鈍痛と共に、メトロノームがひと際高く啼いた。

 砂山を崩したように理性があっさりと瓦解し、連鎖反応の如く目の前が大きく霞む。

 

「――ぐっ」

 

 傾いた世界が、疑問符を浮かべる余地すら与えなかった。しかし条件反射にも似た分析能力が“早い”と、そう判断した。だが、その思考も長くは続かない。

体中の水分が蒸発しまうほどの灼熱が、瞬く間に全身へと行き渡り、内側から身体を蹂躙する。脳髄を溶かし、細胞を灰へと変える。

その影響だろう。定まらない足取りで正門から離れるが、何かに躓いたわけでもないのに、身体が磁石のように地面へと引かれていった。

 

「クッ…ソ――」

悪態をつくことで崩れそうになる身体(そんざい)を踏みとどまらせる。靴が地面を擦る音でさえ、今は遠い世界の出来事のようだ。

渾身の力で何とか身体を支えてはいるが、恐らく数分と持つまい。

足が千切れてしまったのではないかと思えるほど、下半身から感覚が失せていたからだ。それでもギリギリの一線に足を縫い付け、痛む頭を押さえながら必死に堪える。ふと気を抜けば、今にも膝が笑い出しそうだ。

ぶつ切りにされた思考は、肺に溜まっていた酸素が枯渇しても、苦しいとすら判断しなかった。

 

「――がっ」

 

食いしばった歯の間から堪えきれない息が漏れる。

 身体をくの字に折り曲げ、胸を掻き毟り、頭を抉るような頭痛に耐える。これだけ強張っているのに、(からだ)(もえ)ているのに、汗が一滴たりとも出ないのが信じられなかった。

 とうとう本格的に壊れ始めたようだ。

 そうしてどれほどの時間をもがいていたのか。数時間か、はたまた数秒か。

 苦痛すら認識できなくなった脳ミソも、それなりに機能を回復させようとはしているらしく、記憶の海に沈んだ欠片を片っ端から引き揚げていた。

 今朝の詩織との気まずい食事風景。

弟君の悲壮な表情。

社達の怒った顔を照らす、燃えるような朱。

 

 意志とは無関係に、記憶はどんどん遡っていく。

 

 忘れもしない。シエル先生と初めて会った日。

忘れもしない。社達と初めて喋ったあの日。

 

 ちょっと待て。

 

 忘れもしない。彼女とあの家で初めて過ごした一日。

 忘れもしない。背中を伝う刃の冷気と彼女の温もり。

 

 待てって。それ以上――。

 

 忘れもしない。月光に投影された偽りの森。

 忘れもしない。影絵の世界で殺した彼女の――――、

 

止めろ――――ッッ!!!

 

 忘れもしない。その肉塊から噴出す真っ赤な、

 

 

 

 

 

血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血

 

 

 

 

 

 視覚を焼いた閃光が、意識をも包み込む。

 

「――はぁ、はぁ、はぁ」

 

 しかし、それも一瞬。

 気付けば消えていたはずの足が具現化し、肺も今までの分を取り戻せと、活動を再開していた。力が入りすぎた反動か、身体全体が少しダルいが、それもすぐ元に戻るだろう。

――――だが、

 

 

 カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、カチ、

 

 

 音は止まなかった。

 それこそ本当に時計でも埋まっているかのように、頭の中で時を刻み続ける。

 

「……はぁ、はぁ」

 

 驚きはなかった。悲哀も、焦燥も、郷愁も。

 正直、そんな上等な感傷に浸る余裕すらなかった。

 機能を回復させようとしていたはずの思考も、感情も、身体も、麻痺したように動かない。

 唯一、鼓動だけが、鈍感に以前と変わらないリズムで平和を謳歌していた。

 なんて、ちぐはぐな。まるで生きる屍のよう。

 

「…………」

 

 屍がピクリと動く。電池の切れたオモチャのように、ぎこちなく、胸を掴んでいた掌を、拳のまま目の前にかざす。

別に何か利があっての行動じゃなかった。ただ、今も鼻腔の奥に残る鉄の臭いが、どうしても脳裏に過ぎらせる。――――掌を濡らす、赤い……。

 ここに来て平静を保っていた心臓が、初めて微かに高鳴った。まるで促されるように徐々に、徐々に拳を開いていく。焦燥が五指を開かせ、恐怖がそれを遅らせる。

それは、最も永遠に近い一瞬。

彼方まで引き伸ばされた意識の果て、焦慮(しょうりょ)怯臆(きょうおく)が入り混じった視線の先にあったのは、

 

「――――」

 

 ここ一ヶ月と何も変わらない“橘 洵一”の手だった。

 

 だよ……な。そんなワケない。

 

 自分は“司忌”じゃない。橘 洵一だ。

 ならば、視えるはずがない。

 橘 洵一 司忌は、“もうこの世にいないんだ”

 

安堵から緊張を解いてしまったせいか。溜まっていた疲労がせきを切って流れ出し、再び目の前が白光で満たされそうになるが、身体を撫で付ける一陣の風が寸前で意識を繋ぎとめてくれた。

その心地よい涼風が気つけとなったのか、胡乱なままの思考が、ぼんやりと課せられたペナルティの意味を見出した。

 

 そう。この苦痛は罰だ。

 踏み込んではならぬ領域へと歩を進めた自分に対する罰。

 思慮をするのも浅ましいと、恥じるべき行為だと。

彼女に対して感情を抱くなどと、山神 詩織から一体どれほど奪えば満足するのかと、

 

糾弾する。

 

お前に許されたのは、ただ返す事のみだと……、

 

断罪する。

 

「…………」

 

 顔の前にかざした掌を、何度か開いて握ってみる。

 

 入力から実行までのタイムラグ……0.002。誤差範囲内。

 

 これだけでは不確定要素が多すぎる。

今度は目を瞑り、体内に意識を延ばして、さらに破損箇所が無いか確認する。

内臓や骨はもちろんの事、足の末端から頭頂部まで。血管を流れる血液のように、意識を全身に巡らせる。

 

「…………」

 

不思議なことに、あれほど身体を蝕んでいた苦痛は残滓も残さずに消え去っていた。

どれほど隅々を調べても同じ。――――いや、周囲を含めた状況把握は一番初めに叩き込まれている。ゆえに一度で、こと自身においてなら見紛いはありえない。

 絶対の確信から、今度はその確信をも消し、自己へと埋没する。

 海底へ沈んでいくような、緩慢で、それでいて苛立ちを挿ませぬ、眠りのような浮遊感。

 深く、深く。潜れば潜るほど、周囲から雑音が消えていく。他愛無い会話。地を削る靴音。髪を揺らす風。

 視界は一番初めに切り捨てている。体内に延ばしていた意識の触手も畳む。

 その死に至る過程にも似た工程を通過し、外側の世界から“橘 洵一”という意識が完全に孤立した時、思考はようやく元の処理能力を取り戻した。

 

 懸案事項は全て後回し。

 今はこの依頼を解決することだけに集中しろ。

 不必要な情報を切り捨て、必要なだけの情報を抽出し、思考しろ。

二つの事を同時に行えるほど、“橘 洵一”は器用な人間じゃないはずだ。

 他のことに気をとられていては、為せる事も為せなくなる。

救える命も、救えなくなる。

 

「…………」

 

 気合一発。両手で挟むようにして頬を叩く。

 

 パン!と、乾いた音が朝の肌寒い空気によく響く。頬には微かな熱さと痛み残ったが、おかげで頭の中のゴチャゴチャとしたものはずいぶん端に寄ってくれた。“音”も消えたわけじゃないが、集中を乱されるほど大きいわけでもない。

 これなら今後の行動にも支障はない。

 ふと辺りを見渡せば、ここの生徒であろう人達も、ポツポツと登校し始めていた。

 恐らくここがターニングポイント。

 ここでの情報収集の結果が依頼の成否に大きく関わってくる。それもそうだ。西原家がアテに出来ない今、西原 伸宏の生活サイクルを考慮しても、彼の最も詳細な情報が得られるのは、ここしか残されていないのだ。

 

「――――よし!」

 決意を固めて歩き出す。(しるべ)無き、彼方まで続く道へと。

たとえこの道の果てに、

身を焦がす煉獄しかないとしても。

目を瞑りたくなるような後悔があるとしても。

望んだモノが何一つ無いとしても。

今はただ、正しいと思った道を歩もう。

時が進むことしか許されないように、どんな人間も、一歩一歩、歩いて行くことしか出来ないのだから。

 

 

 



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