足元から来る等間隔の振動が、疲労困憊の身体に心地よい眠気をもたらしていた。

 湖畔でボートに寝そべっているような、一、二の三でオチてしまいそうな感か――、

 

「あー? ごめん聞こえない。なに? お前、ちょ……ふざけんなよ!」

 

 そのまどろみも、ひと際大きく響いた怒声に掻き消された。

周囲の乗客数人が、発生源である男を険のある目つきで睨みつける。ここは走行中の電車の中。終電が近いからだろう、乗客の数は昼と比べるべくも無いが、そんな事に関係なく公共施設はみんなが使う場所だ。なのにもかかわらず、

 

「テメーの為にどんだけ金使ったと思ってだよ!」

 

男はまるで我が部屋のように携帯をかけ、あまつさえ隣の車両に聞こえるほどの大声で喋り始めたのだ。男の反応から察するに、女性から別れ話を持ちかけられたようだが、だからといって今すぐ命に関わる用件でもない。

これでは周囲の乗客が怒るのも無理はなかった。

 

「あー、こっちもテメーの不細工なツラ見んのしんどかったんだよね。お前の代わりならいくらでもいるし。つーか死ね!」

 

 電話口の相手を口汚く罵った男は、四方から突き刺さる数多の視線に気がついたらしく、携帯をズボンのポケットに捻じ込み、肩まで伸びる金髪を振り乱して辺りを睥睨した。

 

「あ? 何見てんだよコラ!?」

 

 舌を巻いた声はそれなりにドスが効いていたが、顎に生えた無精ヒゲと鼻に開けたピアス。腰まで下げたジーパンのだらしのない風体は、どう見ても不良になりきれない遊び人。

 でも、中途半端だからこそ、限度を知らない、そもそも考えてもいない。故に、人として越えてはならない一線を平気で踏み越えることが出来る。

 それを裏付けるように、周囲を睨みつける男の目は、薬物中毒者のような危険な据わり方をしていた。

 男の異常性に気づいた乗客はもちろん、気付かなかった乗客も本能的に察したのだろう、ある者は気まずそうに、またある者は慌てて、男から次々と視線を外していった。

 男は最初こそ苛立っていたものの、乗客の反応がお気にめしたのか、蔑むような視線で周りを見渡した後、フン! と、満足げに鼻を鳴らし、駅に停車した電車を降りた。

 男は構内を抜けてそのまま町へと出る。

 夜の繁華街、人波に紛れて歩く男の左手には先ほどの携帯電話。

 

「あはははは! あんなクソ女どうでも良いんだよ。おめぇは俺がどこの学生か分かってんの? 天下の欧州医科大学よ。んなもん、大学の名前出せば、どんな女も一発で釣れるよ。もう、入れ食いよ。入れ食い。ぎゃははは!」

 

 男の野卑な笑いが緑秋町の空気に溶ける。だが、今度は誰かに見咎められることもない。皆、俯きながら、時には男と同じく携帯で話しながら、思い思いの方向へと歩いて行く。

 電車での“静寂”がそうであるように、不特定多数の人間が入り乱れる場所では“他人への不干渉”これが暗黙の了解だった。

 

「お前ら今どこ?――クラブ? え? マジで!?」

 

 どうやら電話先の友人達は女性数人と呑んでいるらしい。

「俺が行くまでその女に手ぇ出すなよ。輪姦(まわ)すのは俺がヤッてからだかんな!」

 

 荒い語調とは裏腹に、汚れた言葉は男の唇から滑らかに滑り落ちた。あたかも普段から口にしている日常会話のように。

 はやる気持ちが、店へと向かう男の足を速めさせる。数時間後、路地裏で組み伏せられ、泣き叫ぶ女の顔でも想像したのだろう。携帯を乱暴にしまった男の口元には、なんとも醜い下品な笑みが張り付いていた。

 

――――これが一つ目の間違い。

 男は店へなど行かず、そのまま帰宅するべきだった。

 

 中心地は未だ賑わいを見せているが、夜は深けてひさしい。都心ともなれば別だが、ここはまだ発展途上の町。色とりどりのネオンが煌く繁華街を少し外れれば、乱立する工事中の高層ビルが天を衝き、華やかな町並みに仲間入りできなかった店がポツポツとシミのようにあるだけだ。

 そして男が目指すクラブもどうやらその類の店だったようで、中心街の眩しいネオンから逃れるように、繁華街の外れの路地裏に店を構えていた。――いや、この立地では潜んでいたといった方が正しいかもしれない。

 クラブやスナックなどは夜が深けてからこそ、本当の営業時間のはず。けれど、こんな人通りの少ない場所に繁盛する要因は見当たらない。この辺りがネオンに包まれ、人が増えるのはまだ先の話なのだ。仮に増えたとしても、こんな隠れたような場所じゃ儲けを見込めるかどうか。

 でも、だからこその利点もあるというもの。

 例えば今、歩を進める男の周囲に建つ、有象無象のビル群。空となり代わろうとするかのように伸びる建物の周りに人影は皆無で、男のように……、

 

「…………」

 

 店へと続く路地裏を目前にして、男はふと違和感に気がついた。

 確かにここは人影が少ない。当たり前だ。日付も変わる間近。大半の人は眠りについている時間帯で、活動している方がオカシイのだが、皆無というのも不自然だった。この先には住宅街も学校もある。男のように遊びに行くのではないにしろ、帰宅の路につく者もいるはず。それに、以前も何度かこの道を通ったが、人影が絶えたことはなかった。もちろん夜半過ぎも含めてだ。男はいつもこの道を誰か見知らぬ他人と歩いていた。

 偶然だと切り捨てればよかった。

 男はうら若き乙女ではないし、母に手を引かれる幼子でもない。道に他人が居るかどうかなんて気にする必要もない。

 でも、周囲があまりにも静かだったから。自分以外の生き物は死に絶えてしまったのではないかと思えるほど、静寂が世界を覆っていたから、男はふと足を止め、周囲を見渡していた。

 

「…………」

 

 辺りは黒一色。人の手によって生まれたはずの無個性なビルの群れが、今はこの上なく不気味に見える。無個性ゆえの恐怖。

 

「――――ハッ」

 

 お化けなどありえるはずないと、バカらしいと内心で嘲笑いながらも、男はビルというビルから、生暖かい視線を感じた。

 ゴクッと息を呑み、咄嗟に光を探すが、雲へとその身を隠した月に、救いを期待できるはずもない。申し訳程度の外灯も、この影絵の世界ではあまりに脆弱。

 男の心情を代弁するように、額から一筋の冷たい汗が流れ落ちる。

一瞬、頭を掠めた、現実感のない恐怖。しかし、男の動悸を高鳴らせるには十分だった。

 

「――――」

 

 どれほどの時間そこに立っていたのか。ついに耐え切れず、男はまるで何かから逃げるように歩き出した。その速さは先程と比べるまでもないが、男にも意地がある。小学生じゃあるまいし、夜道が怖いなんて絶対認めるわけにはいかない。

これじゃ友人達の笑いの種だと、誰が見ているわけでもないのに、小さなプライドが男を走らせなかった。

普段はなんということのない静寂が、今は男を押し潰さんと迫る。結果、ジワジワと三畳一間ほどにまで狭まった頭の中に、暗い劣情など残っているはずもなかった。驚怖と焦燥に背中を押されているかの如く、男は一心に路地裏の店を目指す。

ただそれも、

 

コツン

 

後方から聞こえた靴音によって崩壊した。

蝋人形にでもなったように、男の足がピタリと止まる。同時に後ろの足音も聞こえなくなる。

この時、薄くも色づいていた思考は完全に無色へと変わった。

十数年ぶりに帰る故郷のような懐かしさを覚える“音”と呼べるもの。この何気ない“音”が男にもたらしたのは、心休まる安堵でも、跳び上がるほどの歓喜でもなく、

 

身も凍るほどの恐怖だった。

 

黒い森に入り込んだ直後なら、まだ安堵もあっただろう。だが、男に襲いかかった恐怖は圧倒的過ぎた。

正常な思考など求められるはずもなく、普通ならば安心し息つくはずの所を、男は“敵”、しかもこの靴音の主こそが静寂の発生源であると判断した。

トップギアに入った鼓動が恐怖を増長する。

後ろを振り返ろうにも、膨れ上がった恐怖が脳裏にありもしない、死の予感さえ過ぎらせて動きを縛る。

 気がつけば、歯がガチガチと震えていた。

 

「――はぁ、はぁ、はぁ」

 

 荒い呼吸が凍った足を溶かそうとするのは、身体の生存本能か。 

 徐々に精神が完全に冒され、本能という名の水が、理性の器からこぼれ落ちた時、

 

「――――」

 

プライドも何もかなぐり捨てて、男は走り出していた。

 無茶苦茶なりに作動していた思考はここで完全に停止。

 今、男の身体を動かしているのは、生物として本能のみ。

視界から、意識からあらゆる選択肢を抹消し、生きる為だけに全力を尽くす。――が、それゆえに、男は二つめの間違いを犯していた。

 目の前の、唯一、見知った人間との接触が可能な、クラブへと続く路地裏の入口に気付かず、通り過ぎてしまっていた。

  

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 なおも身体は男を生かそうと、心臓をフル回転させる。

 実行されたプログラムは単純にして明快。

 生存。

 ただそれだけだった。逃走はその手段に過ぎない。

 しかし、単純だからこそ強力。

顔が熱いとか、肺が痛いとか、足がちぎれそうとか、各所から送信された危険(アラ)信号(ート)も、生存本能の前では、あまりにも微弱すぎた。

 男はひたすら走る。

走る。

走る。

走る。

靴音は聞こえてこない。背中を撫でる生々しい人の気配も無い。それでも、まだ後ろにいる。という誇大妄想めいた確信が男を支配していた。

 そうして辿り着いたのは着工して間もない建築現場。

 もはや男の行動に合理性を要求することは不可能だった。目の前にあったから入った。ただそれだけだ。

 どこからともなく、静かに、這うように迫る恐怖から我が身を守るため、男はむき出しの赤茶けた鉄骨に背を預け、上着のポケットから取り出したバタフライナイフを震える手で構える。

 

「へ……、へへへ。ど、どこからくる。ど、どっからでもきやがれ」

 

 ナイフを所持しているという優越感と安堵感。未だ拭いきれない恐怖とそれに対する防衛本能。幾多のものが混ざり合い、男の血走った眼からは、もはや知性が感じられなかった。

 ゆえに――――気付かない。

 ガリ、ガリ、という鉄と鉄の擦れあう音。

 雲の切れ間から顔を出す月。

 

「こ、これで少しは――――」

 

 待ってましたとばかりに夜空を見上げ、微かな希望の挿した男の顔――――に重なる、絶望の影。

 

「――――へ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

グシャッ

 

 

 

 

 

 

 

 

 男が犯した、最後にして最大の間違い。

 それは男の穢れきった思考そのもの。

 

 だから男は気付かない。

 自らが犯した間違いに。

 

 だから男は気付かない。

 自身の死に。

 

 だから男は最後まで気付かない。

 自身を裁いたのは、自らの罪だという事に。

 

 

 

 

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