登校してくる生徒達に紛れて正門を通ると、目と鼻の先ぐらいの距離に噴水が鎮座していた。しかも道のど真ん中に堂々と。傍らには外灯のように背の高い時計。 時間は八時十分。 家を出た時間とここに来るまでに掛かった時間を逆算すると、どうやら発作が起こっていたのはそれほど長い時間ではなかったようなのだが、 そういえば、咲秋学園の正門の傍にも噴水があったな。 と、まるで発作なんて無かったかのように、どうでもいい事を思い出しながら、洵一は緩みきった顔で噴水の横を通り過ぎていった。 ついさっきまで、抉るような激痛と、心臓発作にも引けをとらない苦しみに喘いでいたというのに、今の彼の顔からは、その時ベッタリと張り付いていた色の濃い死相が、綺麗さっぱり消えうせていた。 その変わりようは、心臓病末期の患者が、翌朝のラジオ体操に参加しているぐらいの異常。もし、先程の彼の姿を目撃していたら、千人中千人が、彼に明確な死をイメージしていただろう。 だが、そんな異常も意に介さず、彼の身体は何事も無かったように稼動している。どうやら彼の身体は、彼自身の精神状態に大きく左右されるようだ。 もちろん彼もふざけている訳ではない。 依頼をこなすために意識を切り替えたのだ。 マインドリセット。言葉にすれば仰々しいが、実際はさほど難しいことではない。 その証拠に、日常でもマインドリセットは盛んに行われている。 サラリーマンが朝食を食べて「さて」と立ち上がる。この時にも、マインドリセットを行っている。朝食から仕事へと意識を切り替えたのだ。 しかし、無意識に行っているマインドリセットも、意識的にやれと言われれば話は違ってくる。大抵の場合、意識的にしようとすると、頭の隅にどうしても疑念が生まれる。本当に上手くいくのだろうか。上手くいくはずがない。と。 些細な事なのだが、マインドリセットにとって疑念ほど相性の悪いモノはない。 そういう意味でいうのなら、常人では意識を失いかねないあの苦しみの後でさえ、この呆けた顔をできる橘 洵一は優秀な部類に入るのかもしれないのだろうが、 逆をいえば、意識的な切り替えを強制しなければならないほど、彼は追い込まれていたという事実の裏づけとなる。 「…………」 正門から校舎まで目算で百メートルほど。噴水はちょうどその真ん中辺りに造られており、自然、目的の場所まで後半分だと、依頼に意識を切り替えた思考がぼんやりと悟った。 件の校舎は近づけば近づくほど、存在感、圧迫感ともに、ますます要塞めいた雰囲気を増していた。しかも、鉛白色で統一された外壁が厳つさをさらに助長している。 佇まいはさながら刑務所か。晴れより曇り、朝より夜が似合いそうだ。 そんな華やかさもヘッタクレもない所にポツンとある場違いな噴水は、学校側もこの厳つい雰囲気をそれなりに気にしての配慮だろうか。 まぁ、どちらにせよ焼け石に水、な感じがしないでもないが……。 なんにせよ校舎に入らない限り話は進まない。 入口に辿り着いた洵一はドアに手をかけ、何の躊躇いもなく押し開いた。 視界が広くなるのと同時に明るい照明とタイル式の床、白を基調にした壁がまず目についた。 歴史ある組織というのは総じて“伝統”を重んじる。善し悪しに関係なくだ。例え、既存のモノより数段高性能なモノがあったとしても見向きもしない、なんていうのも珍しくない。もちろん建物とて例外ではないのだが、名門ながら歴史の浅い欧州医科大学にどうやらそれは当てはまらないようだ。泣く子がさらに小便を洩らしそうな外観とはうって変わって、内装はいたって現代的だった。 それと医科大学のせいだろうか。通院したことのない洵一は気付いていないが、神経質なほどに清浄を意識した空間は、内装以上に病院と酷似していた。 他の大学と違うのは何も視覚的なモノだけに止まらない。鼻につく何といえない匂い。建物自体が発する香りと、幾多の人の体臭、香水の香りと薬品独特の臭いが混ざり合い、世界でここにしかない香りを生み出していた。 だが、何よりビックリしたのは、視界を埋め尽くす幾人もの人。人。人。 二階へと続く階段。奥へと伸びる廊下。教室の扉の前。そこいらかしこに人の群れ。人の居ないところを探すほうが難儀しそうなほどだ。 洵一の脳裏をテレビで見た都心のスクランブル交差点の映像が過ぎる。 「…………」 初めて来る大学。予想をはるかに上回る人の多さに洵一の頭の中は驚愕に、あるいは興味で満たされ、足が思わず止まった。――――いつもならば。 ドアを開いた洵一の動作に淀みは無く、校内へと踏み込んだ一歩にも迷いは無かった。堂々とした力強い足取り。 今の洵一には外聞や関心以上に、優先すべきことがある。ならば、戸惑うはずがなかった。 それから行ったのは至極単純。 聞き込みである。 校舎内を練り歩き、目についた人に片っ端から声をかけて、西原 伸宏についての情報を求める。 これだけ人が多ければ、情報も容易に集まるだろう。が、逆に多すぎて、その中のたった一人の男子生徒を覚えているかどうかという不安もあったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。 大学内での西原 伸宏は有名人らしく、名前を出せば全員が頷いた。 しかし、ここに問題がひとつ。何故か全員が全員、西原 伸宏について何も語ろうとはしなかった。気まずそうに口を噤み、顔を逸らすだけ。 目の前に居るこの女生徒も、 「すいません。お伺いしたい事があるのですが」 「良いですけど……なんですか?」 「西原 伸宏という人物を知っていますか?」 「え? 西原 伸宏って、あの……い、いえ、そんな人知りません。すいません、これからちょっと用事があるので、失礼します」 慌てて立ち去っていく。 こんなやり取りをもう何度と繰り返しているが、誰一人として違う反応を見せた者はいなかった。 「ふ〜」 これでは洵一が溜息をつくのも無理はない。 遠ざかる女生徒の背中から視線を外し、腰に手をあてたまま壁に背を預ける。 生徒達は絶対何かを知っている。しかも、今回の件に関わる何かを。恐らくその情報こそ、依頼解決の重要なファクターとなるに違いないのだが、教えてくれないのでは何の意味もない。 もちろんこのまま聞き込みを続けていても無意味だというのも重々承知している。が、無策なのは偽りようない真実。暴力的な手段も最後の最後にしたい。 八方塞とはまさにこの事だ。 悪循環と理解しつつ、どうにもならないのがもどかしかった。 一応、それなりの種蒔きもしているが、それもいつ芽を出すことやら。 ……まぁ、一つはすでに失敗しているのだが。 その一つとは服装。 洵一はこの雑多な人波の中で出来るだけ目立つように、白いタートルネックセーターの上に黒のジャケット。紺のジーパンという服装をチョイスしたのだが、大学という場所はどうやら制服着用の義務は無いらしく、洵一の狙いは外れるどころかモノの見事に周囲に溶け込んでいた。 「とりあえず、何とかしなきゃな」 辺りを見渡し、別の手段を考えるか、と歩き出したその時だった。 「あんたかい? 西原 伸宏のことを嗅ぎ回っているってのは」 声の出どころへと振り返る。 すぐ目の前に立っていたのは痩身の、無精ヒゲが冴えないオッサンだった。服装も一体何年使い回したのか、色の落ちたジーパンは水色。長袖のシャツの襟元はヨレヨレだった。 だが、そんなことは洵一にとって何の意味も持たない。 案外早く芽が出たな。 頬のこけた眠そうな顔を見ながら、歓喜に吊りあがりそうな唇を押さえ込む。 もう一つの種、それは聞き込みという行為そのモノだった。 片っ端から聞き込めば、西原 伸宏を探っている人物がいる。もしくはそれに準ずる噂が立つのは十分に予想できた。人が多ければ伝播も早い。 後は簡単。こっちは待っているだけで良い。そうすれば向こうから接触してくる。 例え、その理由が悪意から湧いたのだとしても。 |