洵一が案内されたのは人気のない教室だった。 相手が自分にとって有益とは限らない。一応は警戒しつつ、男に続いて室内に踏み込む。 入口を潜ると同時に頬を撫でるひんやりとした空気は、この部屋に人が絶えて久しいことを教えていた。洵一はそのまま視線を教室全体に向ける。 八人掛けの長椅子と机が扇状に縦八列、横十列に並べられた教室は、ちょうど下り坂のようになっており、正面の教壇に近づけば近づくほど低くなっていた。恐らくはどこからでも黒板が見えるように工夫しているのだろう。 他の高校と同じく、机を並列に分けて並べるだけの洵一にとってはなかなか興味深かったが、今回の目的は大学の見学ではない。 洵一はひと通り見渡すと、次はすぐ傍の長机へと目線を下げる。 長机の天板にはホコリが積もっておらず、長く使われていないというワケじゃないが、カーテンが閉められているところをかんがみるに、どうやら今の時間だけこの教室は空いているようだ。 「まぁ、座れよ」 男に促され、洵一は手近にあった長椅子に腰掛ける。男は洵一の前の席に座った。自然、洵一が男を見下ろす形になった。 必要な情報、不必要な情報を頭の中でより分け、どうすれば相手から最短で必要な情報を得られるかを思索する。 そこから最適と思われる単語を口にするまで、空白は0.3秒もなかった。 「私は世間話をしにきたわけではありません。嗅ぎ回るのは止めておけ、なんて忠告に耳を貸すつもりもありません」 発作が頻繁に起こっている事に関係があるのか、橘 洵一という存在から余計な外殻が剥がれ落ちて、張り巡らされている全ての感覚が小さな機微も感じ取れるほど鋭敏になっていた。 思考スピードから身体各所に送られる命令伝達スピードも、ここ数日はかなりスムーズだ。鈍重極まりない鎧を脱いで身体が軽くなったような錯覚すら覚える。 「西原 伸宏に関する情報を提供してくれる。という前提条件のもと、貴方に同行しました。もしその条件を満たせないのであれば……」 「いや、俺はあんたが何をしようと知ったこっちゃない。あんたが西原 伸宏を探っている、っていう噂を聞いたから情報提供したいんだ」 「……見返りは?」 「必要ないよ」 とうてい医者の卵とは思えない、覇気のない男の目を正面から見据える。 「…………」 いっけん男の言っていることは筋が通っているように聞こえる。だが、洵一は妙な引っ掛かりを覚えていた。 一体、洵一に情報を提供する事で、男にどんな利益があるのだ? あまつさえ、報酬はいらないといっている。 初っ端から怪しいことこの上ないが、男の黒瞳の揺れ、顔筋の微細な動きは、真実だと告げている。 しかもわざわざ自分から名乗り出たんだから、秘匿はあっても嘘はないだろう。 「わかりました。お話を聞かせてください」 それに虚偽なら虚偽で、今のように顔を観察すれば見破ることができる。後は強引に話を終わらせるなり、偽証の真意を問いただすなりすれば済む話だ。 洵一の心算を露とも知らない男は、逡巡考え込んだ後、口を開いた。 「西原のことを聞いても誰も取り合ってくれなかっただろ?」 「はい。知らないというより、話したくない。関わりあいたくない。といった類の反応でした」 「だろうな。――――まぁ、だから俺がここにいるわけなんだが。……もちろんここのやつらが口を閉ざしたのにはワケがあってな。あいつら四人に関して良い噂を聞いた例がないんだ」 「四人?」 反射的に聞き返した洵一に、男が、あ、と声を零した。それは言うべきではない失言から漏れたのではなく、自身の説明不足に気付いての反応だった。 「西原 伸宏はいつも友達三人と行動していたんだ。中根、大内、石垣。そして西原。たいがいはこのメンバーさ。 んで、さっきも言ったように、こいつらに良い噂がなくてよ。麻薬やってるんじゃないかとか。女を輪姦してるんじゃないかとか。そりゃもう色々。悪評が絶えないやつらだったよ」 洵一にとっては不思議だった。 大学に進学するからには、そこで何か学びたいものがあるはずだ。 でも、話しを聞く限り、連中にそんな探究心があったとは考えにくい。 いや、そもそもペーパーテストというのは、その人の人間性を見る制度ではなく、知識をみるものだから、そこに人間性を求めても詮無いのだが。 あ、後、怪しいところに出入りしてるってのもあったな。と、軽い口調で付け足す男。 確かに男の口振りからでは、彼らに良識のある人物像を想像するのは難しい。噂が真実であるにしろ、そうでないにしろ、彼らが非常識な行動をとらない限り、悪評が生まれることはないはずだ。火のないところに煙は立たない。 つまり、この四人は法を犯すような行為をおこなった。もしくは今もおこなっている。と、考えるのが妥当ではないか。 そして、そんな非常識極まる連中と交流があると知れたら、いつ火の粉が飛んでくるか分からない。 他の生徒達が口を噤むのも自明の理といえた。 しかし、橘 洵一の目には、そんな気まずい顔で慌てて去っていった生徒達の後姿が滑稽で仕方なかった。 例外なく、人間は皆、獣だ。 人間を人間たらしめているモノ。獣と人間を隔てる最大の要因。それが理性だ。 知性は“人間”を維持するためのただの手段に過ぎない。 逆をいえば、理性さえ剥がしてしまえば人間は獣に成り下がる。 仮に四人が麻薬を使用していたとしよう。 一般人ならばこの行為を否定する。倫理観に反する。常識の欠如だと。 それなら、彼らを否定した批評家達は罪を犯したことがないのか? 自身の行動に後ろめたさを感じたことはないのか? 常識とは所詮人間が生きやすいように定めた勝手なルールだ。 ルールに合わない人間がいてもおかしくない。 なのに、自身を顧みるどころか、過去おこないを棚に上げて、今更適合できない人達を否定するのはあまりにも道化のような気がした。 「それでも成績だけはよかったからな。学校としちゃ、きちっと単位とってくれて、問題を表面化させなけりゃ、あとはどうでも良いんだろう」 男のどこか醒めた声色とは裏腹に、洵一の脳裏には疑問符が浮かぶ。 人の命を扱う医者を育成する機関が、こんなにいい加減でいいのか? 本当に、ここで育った医者に人々は人生を、未来を預けても……いや、この疑問は依頼に関係ない。――――削除だ。 目的はあくまで西原 伸宏に関する情報収集。彼が良質な医者かどうかなんて何の関連性も無い。 疑問を打ち消して、再び男の話に耳を傾ける。 思考の迷走はもちろん、修正から完了に至るまでの一連の工程を表情に出すような無様はおかしていない。 男の目には、先ほどと寸分違わぬ洵一の表情が映っているはずだ。 そう、迷走の残滓すら残さず、冷静に眼前の男を観察し、一言一句、嘘がないかを無機質に、ただ坦々と鑑定する。 その在りようは、まるで打ち込まれた命令を処理しつづけるコンピューターのようだった。 「だからだろうな。あいつらはついにやっちまったんだよ」 能弁と喋っていた男がここに来て初めて戸惑いの色を滲ませ、洵一から視線を逸らした。 「……やっちまった?」 「…………」 四人は何をしでかしたのか、洵一の問いにも男は黙したまま、何も語ろうとはしなかった。 他の生徒達とあまりにも似た反応。そこで洵一は悟った。生徒達が口を噤み、逃げ出し、関わりあいたくないと忌避させる最大の原因。 男が発しようとしていたその言葉こそが、今回の元凶なのだと。 「…………」 視線で続きを促す洵一。心の内に湧いた焦燥を、眼球に力を篭めることでやり過ごす。 結果、さらに鋭さを増した洵一の眼光に気圧されたのか、 「ここだけの話しなんだが」 と、男は躊躇いながらも、二人しかいないはずの教室で、声を潜めて話し出した。声量が代弁するように、よほどのことなのか、まるで男がその件に関わっていたような、当惑と驚怖の絡まった面持ちだった。 「さっき西原の友達だって言ったヤツらの中に中根っていただろ? あいつの実家は大病院を経営しててな。そこで色々な医療行為をしていたらしい。もちろん無許可で」 医師免許を持たない学生が基準以上の医療行為をするのはもちろん法律違反だ。露見すれば罰金もしくは試験資格の剥奪。場合によっては実刑もありうる。 しかし、それらは全て露見すれば、の話しなのだ。自身の家が運営する病院ならば、隠蔽もさほど手間にはならないだろう。 ――――ちょっと待て。おかしくないか? 隙間なく、完璧に組み立てたはずの論理が鈍い音をたてた。 俺は何か思い違いをしていないか? 渇望していた夢が、叶った瞬間現実に成り下がるように、ヒビの入ったオブジェは急速に形を変えていく。 医療行為というからてっきり診断や、簡単な治療だとばかり思っていた。だが、それだけでは生徒達の過剰な反応が説明できない。彼らの反応は、こうもっと……、 有象無象の情報が錯綜し、脳髄が熱を上げて処理し続ける。手元にある情報をもとに、あらゆる可能性を検証して、唯一無二のの真実をたぐり寄せる。 そこから永遠にもまさる刹那を経て、洵一の脳はたった一つの結論をはじき出した。 「――おい、まさか」 「あぁ、そうだよ」 洵一の推測を裏付けるように、男の口元は苦く歪み、声は震えていた。 「あいつらは患者に手術を施して」 ――――殺してしまったんだよ。 声と呼ぶにはひどく空虚な音で、男は最後のピースをはめた。 そうして形を成した冷たい結論は、また別の欠片として、さらに巨大なオブジェへと組み込まれていく。 「ちょっと待て。オペの時に医師免許を持った医者がきちんと傍に――――」 言葉を作りながらも、洵一は自身の矛盾に思い当たっていた。 そうだ。もう、答えは明らかだ。ちゃんと医者が居たのなら患者が死んでいるはずが無い。さらに追い討ちをかけるように、状況は刻々と変化して、新たな疑問を浮き彫りにする。 噂というのはたいがいの場合、尾ひれがつく。事実が誇張、改変され、時には身に覚えのない事まで。 それなら、どうやってここの生徒達は四人が無許可で手術を施して患者を殺した。という確信を得たんだ? 普段の素行から?――――違うな。それでは数十人中全員が、あんな過剰ともいえる反応をするわけがない。最低一人は疑問を持つ人間がいてもおかしくはないはずだ。 手術がおこなわれたのが身内の経営する病院なら尚更。隠蔽工作は完璧なはず。 にもかかわらず、聴き込みをした時の生徒達は間違いなく、今回の四人の愚行を確信し、なおかつ関わり合いを……。 “う〜ん。その兄貴の事やけどな。どうやら誰かに狙われてるみたいやねん” “人間は多少精神に異常をきたしとしても、どちらかは必ず取るものなんです。どちらも生きるという行為の中で絶対必要なものですから。だけど今回の場合、その両方がおぼつかないほど精神が衰弱している。” 放熱しながら処理を続ける脳髄が鼓膜に再生したのは、つい最近聞いたはずの、しかし懐かしさを伴わずにはいられない声。それでも、今の洵一とってはただの音塊。懐古の感情が生まれることはなかった。 そこに至ったのは理論の積み重ねによる成果か、はたまた神の気まぐれでもたらされた天啓か。 “結論”のはまった巨大なオブジェは、新たな側面を垣間見せた。 「――――!!!」 そうか。もしこれが事実なら――――いや現段階では間違いなく事実だ。ならば、もうここに用はない。ここで呑気に話を聞いている暇はない。 洵一は机に両手を置き、かぶりを振りながら腰を上げる。 「いえ、なんでもありません」 言葉を紡ぎながらも、すでに洵一の頭の中では、判明した事実をもとに、以後をいかに効率よく行動するか、数十通りの計画が立案、審査、破棄を繰り返していた。その片手間に、 「本日はお話を聞かせてくださって、ありがとうございました」 目下の男に理想的ともいえる微笑、動作でこうべを垂れる。 ただの語り手だった男が、洵一がすでに結論へと辿り着き、すでに次の行動を思索し始めているなんて知る由もない。男は慌てて立ち上がり、 「待て。重要なのはここからで――――」 「いえ、もう結構です。必要な事は全て分かりましたから」 男の制止を振り切って、歩き出そうとする洵一。その刹那。 「――――」 踏み出した一歩が、地に着くことはなかった。唐突な浮遊感と共に、目の前の景色がグニャリと歪む。腹の底からこみ上げる嘔吐感は、立っていることすら困難なほど。 床に片膝を着き、せり上がる嘔吐感に堪える。――――が、 「――――おぇ」 努力も空しく、嘔吐は止まらない。それでも何とか右掌で顔を覆って歯を食い縛り、吐しゃ物だけは飲み下す。胡乱な視界は、他人の眼球のように.現実感がない。 グラグラと揺れる平衡感覚は、頭の中を砲丸が回っているようだ。 な、なんで……。 声にならない声。 考える事すら儘ならない思考が疑問を搾り出す。 熱く滾っていく脳ミソとは逆に、手足の末端は氷のように冷たい。 この何度となく味わった不快極まる感覚。つい二時間ほど前にもこれと同じモノを味わった。 「――い、大丈……」 何か聞こえる。部屋には洵一以外に一人しかいないのだから、答えは言わずとも知れている。しかし、周囲の認識すらおぼつかない洵一には、取り込んだ情報を解析する余裕も、理解する能力も残っていなかった。 指の隙間から覗く眼差しも、とてもじゃないが正常とは言い難い。 極寒に晒されたかの如く震えだす身体。手足を縛っていた寒気はやがて全身へと伝播し、身体全体を包み込んでいた。 ありえない。 発作はどんなに短くても一日おきだったはず。だが、現状から導き出される結論は無常にも一つ。 徐々に間隔が縮まっているのか。 呟いた声はやけにすんなりと染み込んだ。 分かっていた。実家を出て……違う。もっと前から。そう、橘 洵一という存在がこの世に生まれた時から分かっていたはずなのに。何故、何故こんなにも――――、 心が軋むんだ? ふと気がついた、顔を覆う掌の生暖かい感触。 俺はこれを知っている。 鼻腔を痺れさせる芳醇な香り。 俺はこれを覚えている。 口の中いっぱいに広がる。朱い、赤い、紅い――――、 俺はこれを、 ――――鉄の味。 これを誰よりも――――理解している!!! 「――――!!?」 ハッと掌を離す。額にはこの短時間で流したとは思えないほどの汗。 そんなバカなことはない。何せそうなる要因が皆無なんだ。ならば起こるはずがないと信じ、信じ込もうとして、藁にもすがる思いで徐々に掌を開いていく。 耳に響く鼓動がうるさい。ひどく緩慢な時流の中、焦燥と恐怖に背けそうな視線を抑え込んで、見据えた先にあったのは、 罪に濡れた朱色の手。 キツく目を瞑る。 あたかも目の前の現実を拒むように。自らの所業を否定するかのように。キツく、キツく。 「あんた、マジでどっか悪いんじゃないのか? そういえばさっき校門の傍で蹲ってたのって、もしかして……」 「いえ、大丈夫です」 男が言い切るより先に首を振って立ち上がる。最後まで言われてしまうと、もう二度と朱色が視界から、脳裏から離れない気がした。 「ここは大学とはいえ、病院も兼ねてるんだ。検査ぐらい受けていっても罰は当たらん」 罰…か。 申し出を振り切って歩き出したはずの足が止まるが、それも一瞬。 「本当に、大丈夫ですから」 検査なんて受けなくても、自分の身体のことは、自身が一番分かっている。 身体の虚脱感を引きずりながら再び歩を進めようとする洵一を、男はなおも引き止めようとする。 「待て。それなら最後にお前に言わなけりゃならない事があるんだ。実はな、話の中に出てきた四人のうち――――」 「知ってます」 「――――え?」 力のなかった男の目が見開かれる。 洵一は背を向けたまま、絶え間ない頭痛と荒い呼吸の間を縫って、喉を絞った。 「四人中三人はすでに死亡している。そうですね?」 「――――」 答えを聞くまでもない。と、秒にも満たない間断の雄弁な告白を聞き届けて、洵一は歩き出した。 なんの根拠もないはずの噂に生徒たちが確信を得た理由がまさにこれだ。 噂の渦中にいる人間が三人も死亡すれば、例えここの生徒じゃなくとも信じざるをえない。同時に西原 伸宏が怯えているのにも納得がいく。 「…………」 離れていく背中を見つめる男の瞳に映るのは驚愕と当惑と疑心。そして、微塵でありながら濃密な恐怖。男が洵一に向ける眼差しは、まさに“異端”へと向けられたモノ。奴は別の意味であの四人以上に日常に即した人間じゃない。男の中で橘 洵一は“非日常”にカテゴライズされた。 その視線に追われるように、入口へと向かっていた洵一の背中が、ドアの前でピタリと停止する。忘れ物に気付いたような、そんな気軽さだった。 「一つ訊いてもいいですか?」 詰問するからには意図があるはずだ。しかし、洵一の声には探究心も好奇心さえなかった。冷たく、鉄を連想させる声音。 「――――あ? な、なんだ?」 さまざまな感情が入り乱れて、頭がボンヤリしていたせいだろう。自身に問うているのだと男が気付くまで、幾分か間が空いてしまった。 「…………」 男が慌てて訊き返したにもかかわらず、今度は洵一が無言。口を開いたのは、不思議に思った男が首を傾げた時だった。 「なんで、俺なんですか?」 つい数秒前と同じ、いやに冷静で無機質な声。それでも、声が音に成り下がらず、声として認識できたのは、そこに迷いがあったから。 この返答はさすがに予想できなかったらしく、男は一瞬、間の抜けたような顔をしていたが、すぐさま顎に片手を添えて黙考し始めた。 「……ん〜、何でって訊かれてもな」 そんなもの洵一が西原 伸宏に関する情報を求めていたからに決まっているが、きっと洵一が聞きたいのはそんな答えじゃないだろう。 かといって、男の中で上手く言葉がまとまっているわけでもない。 「最初は話すつもりなんてなかったんだけどよ。聴き込みしてるあんたの顔見てたら、なんか急に話したくなった。――――多分、くだらない正義感。偽善だよ」 自嘲気味に苦笑する男に、洵一は傷ついたような、歓喜したような、複雑な表情で頭痛に苛まれた頭を振る。おかげで痛みは一気に八合目まで飛躍したが、どうしてもこれだけは言いたかった。 「別に良いんじゃないですか」 第三者が偽善だと、くだらない正義感だと蔑んでも、救われた人にとっては間違いなく善意であり、ソイツはヒーローだ。それは胸を張っていい。 篭められた真意がどこまで伝わるか分からない。 ほら、男だって言葉の真意を読み損ねて呆然としている。 何故こんなリスクを犯してまで、この言葉を伝えたかったのか……。違う。元から伝わらなくても、理解されなくてもよかったんだ。 何せその言霊は、 ――――自分自身に向けられたモノなんだから。 自己弁護……なんだろうか。 心の中で分かりきった自問自答を繰り返す。既存の解答とは別の答えを求める。なんていうのは、探究心か、すでにある答えを否定したい時ぐらいだ。そして今、洵一の心境がどちらに傾いているのか。許容できない理不尽に長年晒されていたような虚ろな瞳が物語っていた。 いまさら何を擁護しようっていうんだ。この苛み続ける痛みが何よりの証拠じゃないか。 橘 洵一という所業に下された分相応の天罰。 俺に出来るのはただ返すことのみ。――――ただそれだけだ。 カチ ずっと姿を潜めていたはずの音色が、強烈な頭痛と共に急かしてくる。 「――――」 何を? 次の行動を。――――それとも……。 急かされるままドアノブに手をかけ、ドアを押し開く。 「あ、そうだ」 何か言い忘れたのか。男が声を上げるが、洵一の踏み出した一歩は止まらない。一秒後の予測されたひとコマは、洵一には必要性のない未来だ。きっと、……否、間違いなく男は名前を訊いてくる。 「あんた名前はなんていうんだ? おれは――――」 「必要ありません」 男の言葉を、目の前の未来を遮る。 「え?」 出会ってからの中で一番、男の心を強く揺すぶったその声は、刃物のように刺々しくも、氷のように冷たくもなかった。 「ここで名のりあったところで、何の益もありません」 ただ、本人は目の前にいるはずなのに、誰が喋ったのか分からなくなるほど平坦で無色だった。 「――――お前は」 一体、誰なんだ。 不快だからでも、報復で自尊心を満たすためでもない。衝動的に、しかし心の奥底から湧き出た男の疑問は完成を見ることなく、空中へと溶けていく。 言葉の先に橘 洵一の姿は無かったから。 |