雲のヴェールに半月が遮られ、世界の明度が僅かに落ちる。

 洵一はまるで明るさを補うように、身を隠している電柱へと荒く上下する肩を預けた。――――いや、本当は何かに寄りかからなければ立っているのも辛かった。これは身体を支配する脱力感が、平衡感覚にまでおよんだ証拠だ。

止まらないメトロノーム。高鳴る動悸は心臓がとび出そうなほど。

 その影響だろうか。寒風ひとつ吹かない夜の帳がやけに静かだった。自分以外の全てが静止してしまったかのような、不可解でも、ましてや恐怖でもない。何の変哲も無い、ただ圧倒的な静寂が横たわっていた。

 自分を残し、全てが死に絶えた世界で、■が刻まれる唯一の音に耳を傾ける。

 耳朶の奥で鳴り続けていた秒針音は、ついに金属バットのフルスイングにも匹敵する激痛を伴って、執拗に精神を侵し始めた。乱れに乱れた呼吸も、息を吸うだけで頭痛を倍増させる要因に変わる。

 どうやら、症状は来るところまで来てしまったらしい。

 重い事実に反して、洵一の思考は極めて冷静だった。諦念ではない。いかなる状況にあろうとも常に心の中に空白を持て。その教えが良くも悪くも、頭と身体を切り離してくれていた。

 それとも、――――単に思考回路が用をなさなくなった事に気付いていないのか。

 もはやその判断もつかない。

 今の洵一はただ、目的を果たす事しか考えていない。目的を果たす事以外考えられなかった。

 欧州医科大学での聴き込みの後、洵一なりに色々調べた結果、やはり問題の手術に関わっていたと思われる四人のうち、西原 伸宏を除く三人はすでに死亡していた。

 一人目は二週間前。友人宅へと向かう道中、ビルの屋上から落下してきたコンクリートブロック数個が被害者に直撃。数箇所の外傷が認められたが、直接の死因は頭部に接触したブロックによる頭部挫傷。

当初は被害者を狙った計画殺人も視野に入れられていたが、歩道に面した部分が全面ガラス張りで、屋上からしかブロックを落とせない事。しかも、肝心のそのビルの高さが三十メートルを超えるというのだから、まさしく神の垂らした天の糸でもなければ、混雑する人混みの中から被害者一人だけを狙うのは不可能に近い。それに件のビルより低い建物なら両隣にもある。そこから落とされて風に流された可能性だって捨てきれない。しかし、問題の屋上からブロックを落とした際に出来たと思われる、擦過跡がビルの淵に残されていた。

警察はすぐさま無差別犯に切り替え捜査を開始したのだが、一も二も進まないうちに二件目の事件が起こってしまった。

 帰宅のさなか、駅構内の階段から足を滑らせて転落。その際に首の骨を骨折して、病院に運ばれたがそのまま死亡。当時、構内に人が多かったおかげか、目撃者探しにはさほど苦労しなかったのだが、それが逆に事件をややこしくしてしまった。

被害者が転落する瞬間を目撃した人たち全員が全員、「被害者は階段を踏み外した」と、証言したのだ。つまり他殺ではなく、あくまで事故死。

いくら警察でも数十人に及ぶ証言を無視できなかったようで、事故死として片付けられてしまった。

 三人目にいたっては二日前。深夜の工事現場で、落下してきた鉄骨に押しつぶされて死亡。もちろん事故死。

 総合的に見て不自然点は三つ。

 一つ目は死因。

 渦中の人物が二人も事故死するというのは出来すぎている。 しかも一人目と三人目の死亡状況の類似性は見逃せない。

 二つ目は時期。一人目が殺されたのが例の噂が出回り始めた直後だったというのもあるが、加えていえば三人の殺された期間が集中しすぎている。

 ここまでくればもはや確率云々の話しではない。

 警察は事故死として片付けたようだが、被害者を知っている人たちからすれば、そこに何者かの意思を感じるはずだ。

 そして、そこに何者かの意思が介入している決定的な証拠となるのが、三つ目の不審な点である。

 一件目と二件目の事件が起きたのはいずれも昼と夕刻。人目が多い中での出来事だった。幸い、軽傷者が数人出たものの、件の青年たち以外死者は出なかった。――――そう、確かに幸いだった。

 警察とて無知ではあるが、無能ではない。

 短期間に同じ学び舎に在学する学生が三人も死ねば、嫌でも学校に目がいく。そこでもちろん耳にしたに違いない。四人の聞くに堪えない噂。悪行の数々。

 だが、事件は発覚しなければ事件足り得ない。

 警察が聞いたのはあくまで何の裏づけもない、学生達の俗言にすぎないのだ。 

 故に見逃してしまったのであろう。人の意思が明確に現れた三人目の事件を。

 三つの事件に違いは多々あるが、重要なのは被害者が死んだ場所、状況と言い換えてもいい。

 一件目と二件目は人々が行き交う中で。三件目は人気のない深夜に起こった。

 通常、犯罪は人目を忍んでおこなうもの。今回の場合、一件目、二件目でそれを悟り、深夜に時間帯を変更した。愚考どころか賢明な判断だ。これのどこがオカシイのか。そう思うのが定石だろう。でも、オカシイのだ。

 今回の事件が、例の手術に関わった四人を狙ったものなのは明々白々。

 仮に一人目を衝動的に不可視の手段を使って殺したとしよう。その時か後かは分からないが、犯人は四人を殺す決意を固めて実際に行動している。

 これからさらに人を殺すんだ。出来うる限り自分の痕跡は消さなければならない。中でも目撃者に関しては細心の注意を払わなければならないはず。にもかかわらず、二件目の事件はまたも人目のある夕刻に行われた。まだ殺さなければならない目標が残っているというのに、この行動は少しお粗末すぎる。

 一件目から二件目まで六日の開きもあるんだ。次の殺人に備えて策を練る時間も十分にあった。それともそんな考えが思いつかないほど狂気に囚われていたのか。

 もしそうなら三件目が深夜に起こったのも、事件との間にスパンがあるのも説明が出来なくなる。思考力が著しく欠如しているというのなら、被害者の上に物を落とすなんて回りくどい事せず、直接、手を下しているだろうし、間など開けずすぐに四人とも殺しているはず。

 三件目なんていうのはその典型。

 被害者は何故、建設中の工事現場なんかに行ったんだ? 彼には麻薬所持の前歴こそあるが、死体からは麻薬もアルコール反応も検出されなかった。

 その謎を解くポイントは、被害者の傍に落ちていたバタフライナイフ。このナイフこそ、一連の事件が人の手によって引き起こされた事を証明する何よりの物証だ。

 柄に被害者の指紋しかなかったこと、バタフライナイフの刃が剥き出しになっていたところから、被害者は自身の身を守るためにナイフを構えたということになる。しかしながら、周囲に争った形跡は無かった。

 これが一体何を意味するのか。

 被害者はどうしてナイフを構えなければなかなかったのか。

 それは被害者が防衛態勢をとらざるを得ない状況に追い込まれていたからに決まっている。

 例えば、自身を飲み込まんと迫る死から息を切らし、悲鳴を上げる手足に鞭を打ち、必死に逃げまわって、辿り着いたのがあの工事現場。これ以上は逃げおおせないと悟ったのか、獣のように口でだらしなく息をしながら、ナイフを取り出し鉄骨に背中を預ける。

 長く恐怖に晒され過ぎたせいか、血走った眼に知性はなく、それでもナイフを持っている優越感からか、口元は醜くつり上がっているが、その笑みも長くは続かなかった。ふっと気がついた重い鉄同士が擦れあう音。普段ならばすぐに気がついたであろう異常も、冷静さを欠いた今の男に最善を求める方が、どだい無理な話だ。

 数秒後に待つ自身の末路など知る由もない男は、確かに重なる死の影をただポカンと見つめ――――、

 恐怖の渦に堕ちた人間の行動原理と精神状態、状況証拠を鑑みればこんなところだろう。今回の事件は手段こそ明らかじゃないものの、全ては人の意思によるものなのは間違いない。

 そして残るは……。

 眼前の西原邸を見上げる洵一。

 僥倖にも西原 伸宏はまだ生きている。しかも部屋に篭って出てこないとなったら、犯人は必ず付近に姿を見せるはずだ。その時こそ――――、

 

……その時こそなんだ?

 

 真っ白の頭に浮かんだ一滴のシミ。

 いつもならば頭痛(おと)と共に消えてしまう余分(シミ)も、今の洵一に消すことはできない。ハードはプログラムがなければ動けない。命令されなければ、指一本動かすことも許されないのだ。

 

――――俺は事をなして、どうするつもりだったんだ?

 

 “おはよう。洵一”

 

――――俺は事をなした後、

 

 “いや〜、洵一大臣は朝からお盛んで困るわ〜”

 

――――返却という過程の果てに、

 

 “キーーー! また胸小さいって言ったー! アンタだってね――”

 

――――虚像だらけの日常に、必要の無い絆に、

 

 “――――、いえ、そうですね。私も……そう思います”

 

 一体、何を求めているんだ?

 

「――――ガ」

 

 刹那。呼吸が止まる。

 これ以上進んではならないと、欠片にまで砕けた理性が苦痛をもって進行を食い止める。そこに誤算があったとすれば、彼にもう一度自身を組み立てなおす力が残っていなかった事だろう。

 臓腑が裏返ったような嘔吐感。新たに発生した痛みは既存の鈍痛に加わって、苦痛を引きもきらずに深刻にする。足の筋肉が弛緩して、もはや立っている事すら満足に出来ない。電柱に預けた背中がズルズルと下がっていく。そうしてついには地に膝をついたが、その程度で頭痛が治まるわけもなかった。それどころか、もがけばもがくほど症状の悪化に拍車をかけていく。

 

「ギ――――ぅ、あ」

 

 漏れる苦悶の声。血管に熱湯を流されたように全身が熱い。真っ赤な視界に現実感が伴わない。まるで他人の眼球と入れ替えられたみたいだ。シナプスの結合が上手くいかず、次々と断線していく。

 ほつれた思考を立て直そうにも、症状は刻一刻と悪化の一途を辿り、もはや止める術などなかった。

 

「――――グ、ぎ」

 

 何とか耐えようと、知らず知らずのうちに口角から血が滲み出るほど歯を食いしばっていた。額からは滝のような脂汗。もはや限界は目に見えている。時間間隔などとうに消え去り、周囲の認識すら儘ならない彼に一体どれほどの機能が残っていよう。

だが、どれほど傷つこうと、人間としての尊厳を失おうと、混線した記憶回路が無作為に記憶を抽出するたび、温かな記憶(にちじょう)が脳裏をかすめるたびに、無機質なはずの心が軋みをあげる。

 もがけ、と。

 普段ならいざしらず、その言葉の意味に思考を巡らす余裕が少年にあるはずもない。

ないはずなのに、身体が勝手に反応する。

自身を維持しようと、剥がれそうな() 洵一()を右手で必死に押さえつける。

無様だがより真摯に、無意味と知りながら何よりも丹念に積み重ねられた、優しくて、残酷な硝子の仮面。

彼の執念とは裏腹に、仮面は乾燥したペンキの如く指の隙間からボロボロと崩れていく。

 この泥の仮面は一体、誰が何のために作り上げたのか。

 何故、彼はこんなにも自身の維持に固執するのか。

 

――――聞くまでもない。

      この仮面は自身の罪の具現。

      彼女が俺のために、自分の半生を削ぎ落として作り上げた脆弱な鏡像。

      そして何より、橘 洵一と彼女を繋ぐ、唯一の(のろい)だから。 

際限なく熱を上げて処理を続ける演算装置(CPU)に比例して痛みを増す頭痛。

 と、彼の身体を覆っていた震えが唐突に止まる。

 荒い呼吸に上下する肩も、血が滴るほどに噛み締めた唇も、ひたすら不快な吐き気も。

あたかも発作など初めから無かったかのように、時が停止してしまったのかのように、ただ一つ。頭の中で暴れまわる頭痛だけを残して、橘 洵一が0へと逆行していく。

もう足だけでは身体(じぶん)を支えきれず、不確かな地面に力なく両の手をついた。

 

「ハ、」

 

 夜気に零れた出来損ないの音塊は、しかし、満たされた静寂を破って余りある完成された音。

 このまま倒れ伏すのは時間の問題かと思われたが、折れたはずの膝がピクリと動き出し、丸くなっていた背中が大きく膨れた。前髪に隠れて瞳は見えないが、唯一覗くことのできる唇がニヤリと歪に吊りあがって、ついに、

 

「あははははは!!!」

 

 彼を蝕む痛度は感情へと触れはじめた。

 

「ひはははははは――――!!!」

 

――――いや、橘 洵一という殻を破った。

 

「ふはははイタイはひあはっははいタイははいタイはっははいたいはひはは!!!!!!」

 

 笑う。ゲラゲラと。半月を仰ぎ、涙をこぼしながら、気が狂ったように笑い続ける。むしろ声をあげるたびに、痛みが何倍にも飛躍するが、そんなことは知ったこっちゃない。

 可笑しい事など何一つありはしないのに、腹の底から尽きることなく笑いが溢れて、止まらなかった。

 ジワジワと白くなっていく意識。意思の有無に関わらず、身体全体が脱力し始める。

けれどまるで沈黙という隙間を埋めるが如く、己を包み込む静寂という名の死を振り払うかの如く、嘲笑は緑秋町の夜空に響き続ける。

 それでも、決してその嗤笑の意味を探ってはならない。

 結論即ち“全ての否定”

 

「あはふひひゃいははひはははぁ…ぁ………」

 

 そうして“全ての否定”は“彼女の否定”に繋がる。

 自身をなじられても構わない。世界を唾棄されても良い。

 けど、彼女だけは。

 

「…ぁ……ぁ……あ…あ」

 

 詩織だけは……、

 

「ああああああああああああああああああああ――――――――ッッッッッ!!!!!!」

 

 月を落とさんばかりの咆哮。引きずられるように意識のブレーカーが落ちて、足元から地面が消え失せた。それも先ほどのような筋肉の弛緩なんて生易しいものではない。足が消失してしまったかのような、文字通りの浮遊感。視界が白一色に染まって、どれほどの時間が経ったのか、逡巡する間もなかったような気がするし、永遠と呼ばれる時を彷徨ったような気もする。気付けばいつか漂った海中へと、その身を再び沈めていた。

 音が消えた世界。全ての生命が死に絶えた世界で、自己とて例外ではなく、思考の展開など許されるはずもない。ただ、薄っぺらな存在から、欠けてはならない大事な何かが剥落していくだけ。

 あるのは水と果てのない海底。

 かつて水面の向こうに見えていたはず光はずい分と弱々しいし、空に劣らず鮮烈に青かった周囲もどこか薄暗い。

 “在る”ことしか許されないはずのこの世界で、和紙に垂らした墨汁が広がるようにジンワリと、ありもしない疑問への答えが染み込んできた。

 

――――遠ざかっているのか。

 

 もしそうなら、光がか細いのにも納得がいく。今の橘 洵一はそれだけ日常からかけ離れているという事なのだろう。

 と、同時に否応なく悟らされた。

 青と黒、日常と非日常の交わるこの場所こそ、ボーダーラインなのだと。

 

 沈む。

――――絡み付く死体(おんねん)は無い。

 

 漆黒の闇へと。

 

――――当たり前だ。そんなモノ無くたって、どこまででも堕ちていける。だって、

 

 還っていく。

 

――――背後に待つ無限の闇こそ、橘 洵一の居場所なのだから。

 

 我が棲家へと。

 

――――元の場所に戻る。

 

ただそれだけだ。そこには心締め付ける憂いも、胸が張り裂けんばかりの哀しみもない。

あるのは安寧。命令に従って稼動するだけの単調な、しかし苦悩の無い幸福な世界。なのに、

 

どうして俺は、水面へと手を伸ばしているんだ。

 

 ここでは腕なんて、余分なモノが存在するわけがない。それ以前に届くはずもない。

 

――――腕を伸ばして、

 

浮上に十秒とかからない水面との間は、その実、今の彼にとっては無限以上に長く、険しい距離だ。それは彼自身が一番理解している。

 

――――あるはずのない手を光へとかざして、

 

だが、そんなこと関係ないと、無様に。か細い光を掴もうと、消えるなと、瞬く間に潰えかねない不安定な自身を顧みず、掌に収まった淡い陽光を、

 

――――握った。

 

 途端に再び途切れる意識。今度は上下すら分からない一面暗闇。視界が死んだのか、それともここは闇夜の世界なのか。そもそも人に理解できる場所なのか。

 

「……?」

 

クラゲのように闇を彷徨う空っぽの頭の中に、ふと何かが響く。

 いくつもの音源が無秩序に囁くような、全神経を研ぎ澄まさなければ聞こえないほど小さな音の塊。それは何の目的性もない、苛立ちだけを掻きたてる、まさしく無駄の象徴。こんな温い惰性に数秒でも浸かろうものなら気が狂いかねない。唾棄すべき行為だ。

 

――――でも、どこか懐かしい。

 

興味本位か、はたまた橘 洵一の中にある何かがそれを覚えているのか。

その音塊に導かれるように、眠りから覚めるかのような自然さで瞼が開いてく。細い隙間から徐々に入り込む光。少し目が眩みそうなのは、闇夜に目が慣れてしまったからか、それとも橘 洵一 司忌という存在自体にこの光は眩しすぎるのか。

微かな焦燥に胸を詰まらせ、恐怖に躊躇いを覚えながら、視界を満たす陽光の後に広がったのは、

 

――――日常の象徴。喧騒溢れる咲秋学園だった。

 

 

 

 

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