「どういう……ことだ」

 

 知らず知らずのうちに、動揺が口から漏れていた。

 洵一は確かに西原邸の前で張り込みを行っていたはず。だが、周囲の景観はどうみても咲秋学園。窓から降り注ぐ陽光も現在が夜ではなく、昼である事を指し示している。

 咄嗟に時間を確認しようとするが、あいにく洵一は腕時計も携帯電話も持ち合わせていない。とりあえず手近にあった教室へ飛び込んで、黒板のさらに上部に設置された壁掛け時計を見上げた。

 十二時三十七分。

 どうやら今の時間帯は昼休みのようで、突然入ってきた見慣れない人物に向けられる奇異の視線が少ない事にも納得できた。中には驚愕というか興味深げな視線もあったが、洵一にとってはそれどころの話ではない。

 問題はその下の黒板。右端に縦書きされた日数に、洵一は目を見開いた。

 

「十月十八日!?」

 

 奇異ではなく、今度は不審な眼差しが四方から突き刺さる。混乱する思考が焦燥を生み出し、焦燥が混乱に拍車をかける。

このままここにいてどうにかなるものでもない。兎にも角にも一旦教室を後にする。人混みを掻き分けながら、洵一はまとまらない思考の整理を試みるが、

 

 どういうことだ? あれから半日も経過しているなんて。確かあの時は、強烈な発作に襲われて……。

 

 昨日の一連の行動を思い出してはみるものの、洵一は文字通り狐に化かされたような気分を味わっていた。

 

張り込みは夢だったのか?

 

そんなバカらしい選択肢が浮かぶほど混乱していた。いっその事、夢オチにしたいぐらいだが、今もなお頭を蝕み続ける頭痛と、鉛が詰まったように気だるい身体だけが、昨日の残滓を確かに残している。橘 洵一がこの痛みを忘れるわけがない。忘れていいはずがない。

 

 とりあえず、張り込みの件は保留だ。問題は今朝。俺はどうやってここまで……、そもそも俺どうして制服を着ている? 聴き込みをした時は私服だったはずだ。いつの間に帰宅したっていうんだ。

 

 手元にある情報から論理を組み立てようとしたが、間断なく続く頭痛が思考展開を阻む。

 

「――――ぐっ」

 

意に反してフラつく足元。徐々に徐々に、真綿で首を絞めるように頭痛が酷くなってきているのは彼も承知していたが、気にしなければ無視できる範囲だった。しかし、欧州医科大学で起こった発作から、彼を苛む頭痛は明らかに無視できる範囲を逸脱していた。精神的な疲労はもちろん、今のように思考の展開を阻害することもある。

洵一はいったん論理形成を中断して体勢の立て直しを図るが、足が棒にでもなったのか、まったく言うことを聞かない。

正面から来る生徒とすれ違いざまにぶつかりそうになった肩を、身体を捻ることで何とか回避する。

 それでも、一度崩れた体勢は立て直すことが出来ず、無様な千鳥足で窓へと身体を預けた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 何なんだよ。クソ。

 

 掌の汗を握りつぶして毒づいてみるものの、それで頭痛が治まるわけもない。それどころか、心臓は早鐘を打ち、頭痛と虚脱感は酷くなっていくばかり。

 

 これで吐血でもすれば、いよいよだな。

 

 目前に用意された残酷な未来とは裏腹に、洵一の唇の端は歪につりあがる。

 思うとおり動けない事実に苛立ちこそあるが、不思議と悲嘆はなかった。かといって、諦念があるわけでもない。しいていうのなら、感興。

 このままこの道を辿ったところで、行き着く先は分かりきっている。

 でも、初めて遊園地に来た幼子のように、起こる全てが、返ってくる反応全部が楽しくて、刻一刻と追い詰められていく自分が嬉しくて仕方なかった。

 

 

“コレデマタヒトツ、アイツニカエスコトガデキル”

 

 

 え〜と、どこまで考えてたっけ……。

 

 今、考えていたはずの事が思い出せない。

 

「――ハ、はは、ははは!」

 

 思索していたことを忘れるなんて初めてだ。

 身体は命令を受信しないというのに、思考はクリアそのもの。言葉では表現不可能な痛みと、かつてを回顧させるほどのスムーズな思考循環との相乗効果は計り知れず、今ならば未来すら視えそうだ。

 

 そう。あれからいつも通り、明け方近くに自宅に帰ったんだ。そしたらやっぱり詩織がいつものメイド服で、やっぱり無表情のまま玄関に立っていた。寝ていて構わないって言ったのに。そして仮眠を取った後、

 

 ただ、視えすぎて、簡単すぎて、視界に入るもの全てをぶっ壊したくなった。

 

 朝食を食べて咲秋学園に登校した。社と水越は何故か不機嫌で、目も合わせてくれなかった。その後は普通に授業を受けテ……。

 

 記憶は簡単に遡れるのに、昼休みに至るマでの記憶が欠落してイるのはどうしてなんだ。一時的な記オクの混乱か? それとも別のキ憶シょうガまるデ小学校で習う 痛い 足シ算と引き算みタいだ。悩ムのもバカらしイ。顔筋の流ドうが、息ヅ 痛い かイが、仕草ガ、カラダの 痛い 微細な動キ全部がソイつの 頭が ココロを代弁して 割れそうなほど ルじゃナイか。ホラ、アイつもコイツも。あレで 痛い バレてイナイつもりカ? アぁ、なんテクだらないセカイ。ナンテ 疼く わい小な生きもノたち。見ろ。オマエの 左眼が 髪ヲ。ホラ、赤いあかい 疼いて仕方ない 紅いアカイ朱い。 壊したくて オマエが奪った、冒した、穢した、ニンゲ 仕方ない ンどもノ怨念。真っ赤なツミのアカシ。

そして、オマエがイマもなおハズカシめツヅけているオンナとの、

 

「おい、そこのお前」

 

声のするほうへ首をめぐらせると、視線の先で一人の男が顔を曇らせていた。

 

「何だ、その髪は」

 

検索開始。――――該当者一名。

容姿ト仕草カラV年A組ノ担任。飯塚 忠雄ト断定。――――状況把握開始。

 

「話を聞いているのか!?」

 

――――完了。

皮膚ノ状態カラ対象ハ興奮状態ニアルモヨウデス。

原因ハコチラノ頭髪ト推測サレマス。

興奮状態ニ陥ッタ人物ニ対シテノ三十八通リノ対応ヲ立案シマシタ。

ナオ対象ノ右掌ガ、コチラノ右肩二触レテイマス。――――以後ノ行動模索開始。

 

「貴様、黙っていれば済むと――――」

 

――――完了。対象ノ右腕ヲ……速ヤカニ破壊シテクダサイ。

 

飯塚教諭の手首に左掌を添えて握りこむ。少しずつ万力を締めるように、左手に力を送る。

 

……10kg……20kg……30kg。

 

加圧開始カラ3.8秒後、対象ノ口角ト目尻二痙攣を確認シマシタ。負荷ノ増幅ヲ続ケテクダサイ。

 

「――――貴様っ!」

 

……50kg、70kg、80kg

 

「――――ギ、あ」

 

 対象ノ悲鳴ヲ確認シマシタ。負荷ノ増幅ヲ続行シ――――、

 

「橘…さん?」

 

 停止する呼吸。

 有象無象の中から放たれた、とるに足らないその一矢は、音群の間を縫って間違いなく洵一を捉えた。

 あたかも水減(みずへ)しされた鉄板の如く、沸騰した脳細胞が急速に醒めていく。引き摺られるように左手からも力が抜け、万力から解放された飯塚教諭は右腕を押さえながら、顔を苦悶に歪めていた。額には脂汗。この苦しみ方は尋常じゃない。もしかしたら骨にヒビが入っているのかもしれないが、今の洵一にとっては念頭にも浮かばないほど瑣末な出来事だ。

 洵一は呆然と蝋人形のように固まったまま動かない。

 

 止めろ。

 

思考の空白はやがて意識へと侵食していく。止めるべきだと分かっているにもかかわらず、首は鈍く回転しはじめる。そのぎこちなさは、錆びた歯車となんら変わりない。

いつの間に集まったのか、洵一の周囲は飯塚教諭の怒声に足を止めたニンゲン共で人垣が出来ていた。

この生徒(ゴミ)()からたった一つの生徒(ゴミ)を探しだすなんて、広大な砂漠の中から、目的の砂粒を見つけろといっているのと同じだ。困難極まっている。

 

――――止めろ。彼女が居るはずないんだ。

 

それでも眼球は磁石のように、音源へと迷うことなく引かれていく。

 

――――そもそも、見つけることに何の意味もない。探し出せたとしても、きっと……。

 

 見知った、忘れるはずもない気配が背中を撫でる。脳裏を掠めるのは無色の表情。

絶え間なく泳いでいた眼球が生徒(ゴミ)()の一角でピタリと止まる。死のうが生きようがどうでもいい、感情を向けるに値しない、タンパク質の集合体の中にそれはいた。

 即座に視界から情報を取り込み、頭の中に蓄積された膨大な情報の中から外見的特長と一致する人物をアップロードする。――――該当件数一件。

 

「国m――――」

 

 違った。気配は似ているが、導き出され答えは別人だった。

 恐怖にも似た焦燥から解放されたせいか、反射的に“橘 洵一”として喉からせり上がった声は、しかし、言葉にならなかった。そこにいたはずの国見 舞子の顔がピントズレしたようにボヤけ、やがて別の形を成していった。

 肩に垂れる緩くウェーブした髪。

 

――――違う。

 

真一文字に縛られた唇。

 

――――違う。

 

陶磁器を思わせる無機質な白い肌。

 

――――違う。

 

何より、色彩のない(奪った)瞳が、ジッとこちらを(俺が)……、

 

「――――」

 

 そノ瞳コソ、オマエが――――否、俺が今もなお辱め続けている女との――――山神 詩織と橘 洵一を繋ぐ真っ赤な――――決して切れることのない――――血に濡れた朱いキズナ。

 

「――――クッ」

 

 直視に耐え切れず、気付けば背を向けて逃げ出していた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 ペース配分も何もない。肺の酸素を使いきり、鼓膜に反響する激痛を伴った秒針音も無視して、脚を酷使し続けた。そうしてどれぐらい走ったか。身体はギシギシと軋みの悲鳴を上げるが、脳裏に足を止めるという選択肢はいっこうに生まれる気配をみせない。

少年がこの壮絶な負荷に耐えられるのは、訓練の賜物でも、ましてやヤセ我慢でもない。身体は負荷でとっくにネをあげ、停止信号を発信し続けているのだ。単に受信されないだけ。痛みという生命に最も必要な機能を忘れてしまうほど、頭と心を後悔の念が支配していた。

見られてしまった。聴かれてしまった。

彼女に向けるべきではない表情。発するべきではない声。考えるのも愚かな思考。

 それは彼女が自身を、山神 詩織を捨てて作ってくれた、硝子の仮面。その仮面を脱ぐという事は、すなわち山神 詩織の否定。彼女の行為を、存在そのモノを否定することに繋がる。

 それを洵一はあろう事か、彼女の目の前で仮面を外してしまった。

 

 どうして落ちた? どうしてこんな事になった?

 

 いくら考えても答えは出ない。他人の思考ならひも解けるくせに、こんな簡単な疑問一つ解決できない。

 なら、どこでもいい。この場所から、彼女のいる空間から離れられるのなら、あの洋館でも、地獄と呼ばれる場所でも構わない。

 とにかく逃げたかった。

 走る。

 走る。

 走る。

 生徒(ゴミ)を避け、廊下から階段へ。人目の無いところへ。

 走る。

 走る。

 走る。

 猛る鼓動を、暴れまわる痛みをエネルギーに替えて、生命の絶えた場所を目指す。

 ふと目についた扉を開いて、空き部屋とおぼしき部屋に身体を滑り込ませる。この場所を選んだのに理由は無い。人がいなくて、すぐ目の前にあった。単にそれだけだ。

後ろ手に閉めた扉にもたれ掛かったまま、足りない酸素を空気中から補う。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 

 家から咲秋学園まで全力で走っても、息を乱さない自信はある。しかし、今はどうだ。たった数百メートル走っただけで口元はだらしなく開き、身体のダルさに周囲の認識も儘ならない。肌に張り付く大気が寒いのか、熱いのかすら判断できない有様だ。

 だからだろう。

 ここだと言わんばかりに存在感を主張してくる人の気配に気付かなかったのは。

 

「――――!!?」

 

 咄嗟に顔を上げる。陽光が降り注ぐ窓を背に一輪の薔薇が咲いていた。

 組まれたスラリと長い脚。日差しに映える首筋まで伸びた黒髪。化粧っ気のない顔で唯一濡れている唇は、薄くグロスを塗っているらしいが、彼女の顔立ちはそれを差し引いても余りある色香だ。とても同じ高校生とは思えないほど大人びている。

 もちろんそれは外見だけに留まらず、腰掛けているパイプイスが一脚数十万円もするロココ様式のイスに見えてしまうほど、彼女から放たれる雰囲気は優雅でありながら大物感が漂っていた。例えるなら、そう。宮廷に飾られた豪華絢爛な絵画を彷彿とさせる。

 だが残念な事に、今、洵一を見つめる彼女の容顔は決して穏やかとはいえなかった。

 実験体を観察する生物学者のような醒めた表情をしているかと思ったら、時を追うごとに顔色がみるみる険しくなっていく。すでに睨みつけているといっても良い。

 驚愕か、それとも思考力自体が低下してきているのか、今の洵一に彼女の真意を読み取る余裕は無い。ただ、頭を覆っていた強い後悔の念も忘れ、

 

「――――アし屋 かえデ」

 

 と、アップロードされた名前を、壊れた声で呆然と呟いていた。

 

“お気をつけください。――――橘様”

 

 零れた声に導かれたのか、確かに聞き覚えのある暁の鶏声が耳朶に蘇った。思えばあの雨の日から、この言葉から全ての歯車が狂い始めた。それなら彼女が事件について何か知っているのではないか。そんな推測が弾き出されたが、すぐさま却下した。

 芦屋 楓の警告が指し示すモノはもっと別の……、

 

「……てください」

「――――え?」

 

 ただでさえ混乱しているのに、考えことをしていたせいで芦屋 楓の言葉を聞き逃してしまった。

 呆けた顔をしている洵一に彼女は苛立つでも、不快感を表すでもなく、淡々と口調で再び、

 

「どうぞこちらへお掛けください」

 

 と、自分の前にパイプ椅子をもう一脚用意したのだが、勧められたの洵一はというと、彼女の行動に目を細めざるをえなかった。

 

 なんダ? この状況デ一体何ヲ……。

 

 まったくもって理解できない。芦屋 楓の行動には何の脈絡もないが、それは洵一側から

みた話しであり、彼女には彼女なりの、この結論に至った理由があるはず。

 普段なら何かしらの予測を立てられる洵一でも、今回ばかりは何の推測も浮かばない。一時的な混乱か、はたまた思考力自体が低下してきているのか。

 仮に思考力が低下してきているのなら、余計にこんなところで寄り道をしている場合ではない。

 

「――――」

 

 芦屋 楓に背を向け、部屋を出ようとする洵一。ドアの前に辿り着いても、後ろから制止の声が掛かる様子はない。よしんば、掛けられたとしても今の洵一は止まらない。

つまり、洵一の決意はそれほどに強固だということだ。

後は握ったドアノブを回せば、洵一の願いはすんなりと叶う。このまま空き部屋を出ればいい。止まるはずのない掌。が、

 

「根本的な解決にはなりませんが、先延ばしにするぐらいは出来ます」

 

橘 洵一の核心へと触れる平坦な声に、ピタリと止められた。背筋を冷たい汗が伝う。

 預言者めいた警告をしたと思ったら、今度は真意の汲み取れない発言。彼女の目的すら判明していないさなか、少しでも知恵のある者なら、彼女を無視して部屋を去るという選択肢をとるだろう。

しかし、橘 洵一は動かない。足から根でも生えたように動けない。固まった洵一の背中に芦屋 楓はなおも言葉を投げ続ける。

 

「納得できないのなら、それでも構いません。自身に益があるから互いに相手を利用しあう。そう認識していただいて結構です」

 

双方に得があると芦屋 楓は言った。確かにこちら側にはある。洵一は何も言っていないが、彼女は数千数万という可能性の中から寸分違わず、望むモノを与えてくれる。

残り少ない思考力が彼女の声色を、仕草を、呼吸の速さを自動的に読み取って、相手に敵意がない事、目前の女が自身の願望を叶えてくれる存在である事を教えてくれている。

 しかしながら、やはり不可解さは拭えない。女の目的が不透明すぎるのだ。

 

 どウする。こノ女に従っテいイノか?

 

洵一は自身の体調を顧みずに、劣化した思考回路をひたすら回し、芦屋 楓の微細な変化を取り込んで解析し続ける。結果、

 

「――――グッ」

 

 立っているだけの足元がおぼつかなくなり、視界の焦点も散漫になる。反射的に右手で顔を覆うが、これは何かを隠すためでも、起こった異変を確認する行為でもない。事実、洵一の顔には何の変化もない。――――そう、第三者から見れば。

 だが、洵一の裡で異変は確実に起こっていた。

 顔の表面が乾燥した泥のようにボロボロと崩れて、指の間を落ちていく。もちろんそれは幻で、実際洵一の顔はちゃんと本来の形を保っている。でも、洵一の掌の上には確かに“橘 洵一”の残骸は存在しているのだ。

 それナら、() 洵一()を見テイる俺ハだれな――――、

 

「橘 洵一――――!!!」

「――――!!?」

 

 鼓膜をつんざく大声。何が起こったのかまったく分からない。

芦屋 楓が一喝したのだと気づいた時には、意識にかかっていた靄はもう完全に晴れていた。

洵一は美人というのは総じて物静かだというイメージを持っていた。

それは彼の中で美人というカテゴリーに当てはまるのが山神 詩織だけだから、美人=山神 詩織=無口=美人。故に美人は無口だという主観丸出しの印象を懐いていた。

 しかし、今の芦屋 楓はその整った顔立ちを崩し、驚愕冷めやらぬ洵一の視線の先で、不機嫌そうに眉根を寄せていた。なまじ美麗な顔をしているだけに、些細な表情の変化に伴う印象の強さが顕著に現れる。

 威圧感に圧倒される洵一をひとしきり睨みつけた後、今度は呆れたとばかりに溜息を吐いて、

 

「座ってください」

 

 と、次は直接命令してきた。

 きっと何をしても絵になる芦屋 楓だが、深く息を吐き、シワの寄った眉間に指先を添えて自制をかける仕草は、彼女の存在をとても身近なものに感じさせた。

 けれども、それとこれとは話しが別だ。

 顔を俯かせ、再度黙考に入ろうとした洵一に気がついたのか、芦屋 楓の細い眉がピクリと上下する。そして大人子供全てが震え立つような、低く冷たい声音で、

 

「座りなさい」

「――――う」

 

 芦屋 楓の鋭い眼光に息の詰まる洵一。

 洵一の中で美人のイメージが音をたてて崩壊していくが、不平を漏らしてこの状況が好転するはずもない。

 洵一は渋々、彼女が用意したパイプイスに腰掛ける。まぁ、だんだん立っているのが辛くなってきたというのも理由の一つとしてあげられるのだ。それに身体の虚脱感が少しでも抜ければ、無理やり話を中断させればいいだけ。

 ここは大人しくしておくのが得策と、洵一は判断した。

 

「…………」

「…………」

 

 芦屋 楓は淀みない動作で、洵一の額に掌を当てて熱を計った後、手首に人差し指と中指を添えて脈を計り始める。

 その間、手もちぶさになった洵一はなんとなく周囲を見渡す。

 今、洵一の目の前に成績優秀、容姿端麗、かといって悪辣な風評一つ無い、誰もが認める咲秋学園のパーフェクトガール、芦屋 楓の美顔があるのだ。常人ならば視線など逸らせるはずもない。イチ男子なら彼女から漏れる芳香に鼻をヒクつかせ、女子なら長いマツゲと妖艶な唇に瞳を奪われている。しかも手を握られるなんて事になったら、男女問わず即死効果を発揮するに違いない。

これは理性で解決できる問題ではなく、むしろ思春期真っ盛りの少年少女としては正常な反応といえる。

 無論、橘 洵一もそんな少年少女たちと年齢を同じくするはずなのだが、彼は手を握られ、あまつさえ額に掌を添えられたというのに、動揺する素振りすらなく落ち着き払い、なおも神経を削り続ける頭痛を噛み殺しながら、部屋の解析を開始していた。

 彼女の親衛隊なら鼻血ジェット級のシチュエーションも、洵一にとっては表情を崩すにも値しない瑣事のようである。

 すぐ傍に鎮座する横長のパイプテーブルを並べて正方形を模った机。何脚かのパイプイスと同じ、ささやかな装飾すらも施されていない、必要最低限の機能のみを求められた調度類の数々。これらは学園内に五万とあり、隣室でも目にする事のできる何の変哲もない用具だ。洵一がこの空間に既視感を覚えたのはこんな視界に捉えられる物からではなく、部屋の隅々にまで満ちた匂いからだった。文字通り壁に、天井に、数々の家具に染み付いた“匂い”が、彼の居場所を明示していた。

 

 ここは……部室か。

 

 まず間違いない。ここは瀬那組の活動拠点として使用している、第二天体観測部の部室だ。

日常から逃げてきたというのに、橘 洵一として多くを過ごした部室(ここ)に辿り着くなんて皮肉な話しだ。

 洵一は自嘲に口元を吊り上げようとするが、触診を終えて肌を離れていく指先の温もりが意識を彼女へと誘導した。

 淀みのない動作からも明らかだったが、何より腕を組み、床を睨むように顔を伏せて真剣に考え込む芦屋 楓の顔は、間違いなく医者のそれだった。

 洵一がイスから立ち上がると、芦屋 楓もつられて顔を上げる。彼女の指示に従ったのはあくまで少し休憩するためだけであって、元から診察結果に興味はない。元より自身の体調は自分が一番よくわかっている。だが、

 

「ちょっ■待ち■さい。ど■にいく気?」

 

 巻きネジの切れたブリキのように、踏み出した足が停止してしまう。

 咎めるニュアンスを含んだ彼女の問いにではなく、視界を走ったノイズに。

 それでも歩を止めたのは瞬くほど。再び何事も無かったかのように歩き出す洵一。

 彼のそんな態度を見て、もう何を言っても無駄だと諦めたのか、ドアの前に立っても、ドアが開いても、背後からもう声が聞こえることはなかった。

 芦屋 楓の視界から洵一の背中が消え、キィ、と味気ない音をたててドアが閉じる。

 今一度大息をつく芦屋 楓。疲労からじゃない。無茶を通りこし、自殺願望があるとしか思えない無謀を繰り返す少年に対する呆れから。疲れたというのなら、これからのことを考える方がよっぽど精神的に疲れる。

 そうして吐いた息が部室の空気に馴染んで消えかける頃、沈んだ気持ちを端々に滲ませつつ、芦屋 楓は言い放った。

 

「いつまでそうしているつもりですか」

 

 誰もいないはずの空間に向けて、

 

「――――シエルさん」

 

 

 

 

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