部室を後にした洵一は人影のない校舎を歩いていた。部室棟から校舎を経由して正門を目指す算段のようだ。周囲に人影が皆無なのは、故意に人気のない道を選んでいるからに他ならない。

 理由はもちろん先ほどの騒ぎのせいもあるが、何より今は教室に戻る気分になれなかった。かといって、帰宅するという選択肢は論外。家には山神 詩織がいる。別段、彼女が疎ましいわけでも、嫌いになったわけでもない。それでも――――帰れない。 

 

 今の俺にはその資格がない。

 

 残ったのは街を彷徨うか、また西原家の前で張り込むぐらいだ。

 たった一度だ。たった一度の発作でこんな簡単に居場所を失ってしまう。

 つくづく、橘 洵一は日常(ここ)に相応しい人間じゃないんだと痛感させられる。

 

思い返してみれば橘 洵一は常に観察者だった。

装飾ばかりで中身の伴わないハリボテの日常と、何の疑いもなくその舞台で踊り続ける、鈍感な踊り子(ニンゲン)たち。

救いがたいのは、自分達の周囲が幼子の塗り絵より粗雑で、発泡スチロール並みに脆いモノだと気付いていながら、眼前の現実に目を瞑り、安寧のみを求める惰性。人間の性と言い換えてもいい。

しかし、それ以上に愚かで救いがたいのが、橘 洵一という存在。

愚行と知りながら、周囲の粉飾に埋もれ追われるように日常を学んだ。体面を捨て、他人への迷惑なんて考えつかないほどの強迫観念に突き動かされていた。だが、結局は何も得られなかった。

友人の百の助言も、千の益をもたらしてくれた日常も、長くを闇と共にしていた彼にとっては理解の及ぶ範囲ではなかった。手にしたものを隅々まで理解しなければ、本当の意味で獲得したとは言えない。ならば、得たモノが指先をすり抜けていくのは道理。

そうして突きつけられた未来がこれだ。

誰が悪いわけでもない。

橘 洵一は、万の幸福をもってしても満たされない、人間以上に無様で空虚な傀儡だった。ただそれだけの話しだ。

それでも。人形とさして変わりない彼はやっぱり人間であり、故に意思があった。

 すぐさま必要な処置を受ければ、身体を覆う虚脱感も、金属バットの殴打にも匹敵する頭痛も、少しは改善されるだろう。上手くいけば完治する可能性だってあるかもしれない。

 だけど彼は、必ず完治するとしても、治療を頑なに拒むだろう。

 この事件は早期解決が必須な事。何より事件を解決できなかった時の、社達の心情を察すれば、動かずにはいられなかった。

 だから今もこうして洵一は、西原家に向かおうとしている。

 その西原家を目指す一歩が不意に止まる。

 原因は向こうまで一直線に伸びる廊下の奥。左側には空き教室がズラリと整列し、右側には陽光を等しく取り込む窓が並んでいる。廊下は一番奥で右折しており、洵一まで続く道程に人影は無い。

 けれど、未だ見えない人影の気配に、洵一の背筋は氷柱でも突っ込まれたように総毛立ち、うなじが微かな痺れと共に警告を発し続けていた。

 何より洵一自身が気付いていた。

 今より数秒後の未来。あの角を曲がってくる人間に。

停止した思考と、廊下の奥に釘付けになった眼球。

 そこには理論も理屈もない。

 だが、事あの男に関しては間違おうはずがない。絶対以上の確信があった。

 恐らく向こうも気付いている。――――いや、間違いなく、確信すら得ているだろう。

 今更後戻りするつもりはない。無論、相手も同じ。それどころか、後退の一文字すら浮かんでいないだろう。

 コツコツ、と聞こえるはずのない靴音が反響して鼓膜を揺らす。

 角から人影が現れる。

 直線にして三十メートル強。窓から差し込む日差しのせいで、いまひとつ顔がハッキリしないが、廊下を侵食していく張り詰めた空気と、時を追うごとに強まっていくプレッシャーが、男の正体を能弁に語っていた。

 男は悠然と、あたかも洵一など初めから見えていないかのように、遠くに視線を投げたまま、こちらへと歩いてくる。

 数メートルがやけに長い。

その間にも、緊張感が際限なく身体を締め上げていく。それが一体どれほどのものなのか、洵一の額から流れる、時間と比例しない大量の汗が如実に現していた。極度の緊張が渇きを生み、口内に溜まった唾液を無意識に飲み下す。

まだ目すら合っていないのに、身も竦むこのプレッシャー。

ここまできて洵一は後悔する。何故、逃げなかったのか、と。

 もう男との距離は最初の半分ほどにまで縮まってしまっている。が、やはり男は洵一を見ていなかった。

 音の死に絶えた空間で無音が耳に痛い。やはりあの靴音は洵一の緊張が作り出した幻聴だったのか。時間が引き延ばされて、一秒にも満たない男の一挙手一投足がスローモーションのように感じられる。音が無いというのはこれほどの苦痛なのか。

 

「……橘 顕吾」

 

 場を支配していた無音を破る、音と呼ぶにはあまりにも不安定な空気の振動。

 それが自分の意に反して喉から出たもののだと気付くのに、数瞬の間をようした。

微動だに出来ない身体の生存本能か。名を呼んだことに意味などありはしない。そもそも、洵一に男を呼び止める意志はなかった。この圧迫感すら感じる静寂を払拭できれば何でも良かったのだ。

しかし、結果として橘 顕吾は洵一の存在に気付き、目前で立ち止まった。僅かに下げた黒瞳は氷塊ですら生温い絶対零度。射抜かれた洵一の意識は文字通り凍りついた。

 

「…………」

 

 セメントで足を固められたように動けない洵一を、男は無言のまま無色の視線で絡めとる。常人がいきなり電柱に話しかけないように、男にとって路傍の石程度の価値しかない洵一に、わざわざ話しかける必要性はないのだ。それ以前に感情を移入するに値しない。と、男の眼差しが、表情が、目に見える全てが断言していた。

 にもかかわらず、物理的な感触すら幻視させる威圧感は緩むどころか、ますます洵一の精神を追い詰めて蝕んでいく。息苦しさのあまり思わず、

 

「ど、どウしてコこニイる?」

 

 意味のない問いかけをしていた。

 さっきは声を出すことで救われたから今度も、と無意識に思ったのかもしれない。

 そんな浅ましい考えを男は見抜いているのか、

 

「橘家はここの出資者の一角だ。ならば現状視察のため往訪しても、何の不思議もあるまい」

 

あからさまではないものの、起伏の乏しい声音の端々に蔑みが滲み出ていた。そして唐突に周囲を見渡したかと思ったら、何故か納得したように頷いた。

 

「そうか。ここが貴様の選んだ実験場というワケか」

「――――え?」

 

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。こっちはとっくに余裕を失っているというのに、男は追い討ちをかけるように、嘲笑を浮かべながら、

 

「どうりでここには中身の無いモノばかりが我が物顔で居座っているのか」

 

 橘 洵一の全てを切り捨てた。

 

「――――」

 

 男の言葉が理解できない。してはいけない。

 

 橘 顕吾 黄海は、魂が抜けたような洵一の眼を見据え、

 

「何を呆けている? 気付いているのだろう?――――いや、避けていたのか。ならばはっきりと言ってやろう」

「――――れ」

 

 拒め。

 

 橘 洵一 司忌ではなく、橘 洵一が大音量の警報を鳴らしていた。

 

「ここが貴様の観察空間ならば、並べられた粉飾品は貴様の願望の具現」

「――――まれ」

 

 それ以上言わせるな、と。

その先を、真実を見せられたら、橘 洵一は跡形もなく――――、

 

「この場所にあるのは装飾ばかりで中身の伴わない、」

 

――――ゴミばかりだ。

 

「――――黙れッ!!!」

 

 怒声が廊下にこだまする。

 たった一回声を荒げただけで肺の酸素は枯渇し、頭の中は真っ白。男を黙らせる有効な手段なら他にもあったはずだ。だけど――――出来なかった。

 

「考え違いをするな。橘 洵一という人間は単なる借り物にすぎない」

 

 否定も。

 

「貴様が一人の女から、山神 詩織の人生を奪って創りあげた虚像だ」

 

 肯定も。

 

「そんな人間が人助け? 笑わせるな。明確な自身すらない者に他者を救える道理は無い」

 

 胸に突き刺さるその言葉があまりにも正しかったから。

「貴様は心底から友の救済を願ったわけではない。このままでは友人(モルモット)達を使った日常収集が出来なくなる。それを回避するために貴様は必死に駆けずり回っているのだけだ。

つまるところ、貴様が行っているのは救済ですらない。益を求めた――――単なる打算だ」

 

間違っているのだと、信じたかったから。

 

「そう。全ては偽物。貴様の中に何一つとして真実はない。

 Naturel bone killer machine。

 昔も今も、略奪することでしか自身の存在を証明できない、不出来な機械人形。

生きるために殺すのではなく、殺すために生きる怪物。それが、」

 

――――橘 洵一の正体だ。

 

 男は当たり前の真実を告げるよう躊躇いなく、無慈悲に、残酷に、橘 洵一の素顔を暴いた。

 

 

 

 

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