数日後に改めてこの日を振り返ったとき、明確な記憶は残っていなかった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 断片的ながらも覚えているのは、まるで何かから逃げるように、脇目もふらず全力で駆け抜けた街。ビルを、人を、空を染める鮮烈な赤。

 

 事実、俺は逃げていた。

実験場(がくえん)から、鏡像から、日常から、罪業から、何より……。

 

 息を切らし、せり上がる嘔吐感を噛み殺し、ろくすっぽ命令を聞きやがらない身体を酷使して、橘 洵一を構成しているあらゆるモノから、ただがむしゃらに逃避していた。

 

 どこに?

 

 日常から逃げた俺に、日常という名の装飾がなければ成立しないこの世界で居場所などあるはずもない。

 行けども行けども付きまとうのは、捨てたはずの紅い色彩。

 駆けながら安易に目を開くことも許されない。

 往来の人々に肩をぶつけながら、それでも顔を上げず、果て無き道を走り続ける。

 

――――意地でも開きたくない。だって、瞼を開いた瞬間、視界に入ってくるのは、

 

「――――」

 

 折れんばかりに躍動していたはずの両足が不意に止まり、同時に意識が洗浄された。大きく見開いた瞼。剥き出しの眼球が捕まえたのは道往く通行人でも、刻一刻と流れ続ける時間でもない。ただ、

 目の前の、朱い血(かこ)に濡れた日常(げんざい)を無感動に、淡々と視界に焼き付けていた。

手足の末端から生まれた冷気は、人間味(ねつ)を失って機械人形(かこ)へと回帰していく余韻か。

火種が薪をジリジリと焼くように、橘 洵一が過去に侵食される。

 網膜を占領する赤。

 誤魔化したところで変わらない、過去を、橘 洵一を構成する紅。

そして、橘 洵一 司忌の存在を許してくれる唯一の――――朱。

 

「――――」

 

 気がつけばフラフラと歩き出していた。次の瞬間には倒れそうなほど、おぼつかない足取りで、何も視界に入らないように顔を伏せて。あたかも、焼き付けた風景を心の奥に留めようとするかのように。

 彷徨い続ける。血の町を。

 過去を否定して、現在を手放した俺に戻れる場所などありはしないというのに、惨めに、かといって諦めきれず、未練たらしくしがみついている。

 朦朧とする意識。熱にうかされた思考のまま、ボンヤリと考える。

 

――――初めはただみんなの哀しむ顔を見たくないだけだった。

 

 どんなに悪態をついても、結局最後には他人を優先してしまう、そんなヤツらだからこそ、出来るだけ笑っていて欲しかった。

 何より、アイツ等が笑ってると、何故かこっちまで嬉しくなるのだ。

 でも、違った。気付いたんだ、あの男の言葉で。

 

――――益を求めた、単なる……

 

 俺が嬉しかったのは、アイツ等が笑ってるからじゃなく、アイツ等の笑顔を見ることで、日常が続いているのだと安堵していたから。俺にとって日常はどんな物より優先すべき事象。故に、傷つくことに恐れはなかった。

 多分、誰でも良かったんだ。

 日常という現象を体験できるなら、アイツ等じゃなくても……。

 なら、どうして俺はアイツ等を選んだ?

 替えなどいくらでもいるのに、何故固執している? 

こんなに苦しい思いをしてまで……。

 

 分からない。

 

――――生きるために殺すのではなく、殺すために……

 

 殺すために生きるのが怪物だとするのならば、殺す事を止めた怪物に存在意義はあるのだろうか?

 切れなくなった刃物と同じ、用をなさなくなった瞬間に価値を失い、同時に名も失う。

 かつての成果を褒め称えられることも、労われる事もなく、唯一与えられるのはゴミという粗雑でにべもない、たった二つの文字と廃棄処分の運命のみ。

 暗殺業を辞めた俺は司忌の名を失い、利用価値もなくなった。なのにどうして、

俺はまだ生きている?

 いつの日だったか、彼女は言った。

 

“人は何かを成す為に、役割を背負って生まれてくるのです”

 

 それなら教えてくれ。

 この言葉を教えてくれた君なら、知っているはずだろ?

 俺の生まれてきた理由。存在意義を。

 なぁ、詩――、

 

「…………!!!」

 

 見覚えのあるという言葉では足りない、隣にあるのが当たり前だったはずの気配に思考が凍る。

 感覚が狭まっていたせいだろう、すぐ足元まで伸びてくる人影に気付かなかった。

どうして気がつかなかった? そんな疑問符が浮かぶより先に、収縮した瞳孔は迷うことなく、見慣れた門戸の前に佇む少女へと引かれていく。

つま先から膝へ(思い浮かべていた少女と照らし合わせるように)、膝から腰へと(本物かどうか確かめるように)、黒瞳が彼女の身体を這っていく。

遅れて鼻腔を満たした嗅ぎなれた匂いが、自分の立っている居場所をふやけた頭に突きつけるが、それでも、収縮した瞳孔は彼女の微風に揺れる髪を、赤く薫染された横顔を捕らえて離さない。

――――赤い。

 オレンジの道の上。空すらも染めあげた赤色にも侵されない彼女の無色の視線と、俺の有色の視線が空中で絡み合う。

――――紅い。

 世界がこんなにも毒々しい色をしているのは、彼女の背後でジッと俺を見つめ続ける夕陽のせいか。

 それとも、俺が血を浴びすぎたからなのか。

そんなのどちらでも構わない。

何より辛いのは、目の前の少女を、血に濡れた山神 詩織(つみのぐげん)を直視すること。

顔を伏せて詩織の横を足早に通り過ぎ、門戸を潜る。

耳朶に届く足音は一人分。前を歩く俺に彼女の反応を確かめる術は無い。――――否、方法はある。知れたこと。足を止めて振り返れば良い。それだけで詩織が後ろにいるのか、一体どんな表情をしているのか。容易く確かめられる。

あの女に表情なんてあるはずない。

でも、出来ない。

今は一刻も早く、彼女と距離を置きたかった。逃げたかった。

山神 詩織の表情(かお)は俺が奪ったんだから。

彼女に見せるべき顔は橘 洵一であり、決して橘 洵一 司忌(こんなかお)ではない。

 

「はぁ、はぁはぁ」

 

 何も考えられないほど脳みそがふやけている。頭蓋が裏返ったような頭痛に、その場で蹲りたい衝動にかられるが、そんな余分なことをしている暇があったら、一歩でも前に。詩織から離れたいが、かといって他に行くあてもない。

 俺にはこの屋敷以外、帰る場所なんてなかった。

 引き戸の扉を引いて、靴を放り投げるように無造作に脱ぎ捨てる。

 

「――――ハァハァはぁ……はぁ」

 

 沸騰し、揺れる視界。不安定な足取りは自分の状態を如実に表していた。真っ直ぐ進むだけでいいのだが、気を抜けば止まってしまいそうなこの身体に、十五メートルの距離はあまりにも遠い。

 

 熱い 熱い 熱い 熱い 熱い 熱い 熱い 熱い 熱い 熱い 熱い 熱い 熱い 熱い

 

頭はバカになっても身体は自分の部屋へと勝手に進んでいく。そうして、前のめりになりながらようやく自室の前に辿り着いたと思ったら、今度は手が震えてドアノブが上手く掴めない。

 

「はぁはぁはぁ」

 

 焦燥が呼気を煽る。

 

「――――くソッ」

 

 じれったさに耐え切れず、両手でドアノブを掴む。が、それでも震えを完全には抑えきれない。指の骨が折れんばかりの力を篭めて、やっとドアノブは回ってくれた。

 そして僅かに開いた隙間に、身体を滑り込ませて部屋に入る。

 安堵からだろうか、膝から力が抜けて扉へと背中をついた。

 

「はぁ――ハァはぁ、はぁ」

 

 顔を上げて天井を仰ぐ。不安定な呼吸。鼓動もさっきから一定しない。このまま座り込みたかったが――――ダメだ。これも余分だ。

――――違う。本当は余分な事をする手間を惜しんだんじゃない。出来ないんだ。余計なことをしている余裕が、もう自分には残っていないのだ。

 

「――――」

 

 どうしてそう思ったかは定かではない。

 気付けば、体勢を反転させ、床に視線を落としたまま、扉に頭をついていた。

自分でも何故こんなことをしているのか、まったく見当がつかない。

だけど、俺の中にある何かが確信を得ていた。

扉の向こうに彼女がいる。

もちろん物音一つなかったし、姿を確認したわけでもない。

 

「ふぅ――――ふゥ、フゥ」

 なのに、俺は揃わない呼吸を整えて、橘 洵一(りそう)の声を探していた。

 言いたいことはそれこそ山のようにある。一時間やそこらで語りつくせないほど。

 それでも、本当に言いたいことは、言わなければならない大切なことは、たった一つしかなかった。

 薄く開いた唇。

 

「――――おベン当」

 

 ほつれた言葉一つ一つを確かめるように、しかし、許される限りの感謝を篭めて、

 

「いつもありがとう」

 

 彼女に届けと願った。

 

 

 

 

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