「ハァ、はぁ、はぁ」

 

 星を映さない濁った夜空に溶ける不揃いな呼気は、体調の深刻さを寸分洩らさず、如実に伝えていた。

 身体を支配するのは地に伏しかねない嘔吐と虚脱感。正常を放棄してもなんら不思議のない、かき回されるような頭痛との複合は、まさに生き地獄といっても過言ではなかった。

 しかし、その死よりもなお苦しい状況にあって、少年の頭に苦痛(ノイズ)はなく、電柱の影に彫像の如く泰然と立ち尽くす姿は、体調がとても深刻にあるとは思えない。

視線の先にはどこにでもありそうな、ありふれた一軒の家屋。

あの家に宝があるわけでも、ましてや怨恨を懐いているわけでもない。

 少年はただ己の目的のためだけに、文字通り身を削ってここに立っていた。

 そう、洵一は一度として他人を慮って行動を起こしたことはない。

 障害物を素早く排除して日常を収集するため。あまつさえ、そこでしか学べない何かを得るために、積極的に行動していたに過ぎないのだ。

 結果、それを勘違いした者達が、橘 洵一は困ったヤツを放っておけないお人よし。という勝手な印象を持っただけの話し。

 橘 洵一が心から安寧を願う人間はただ一人。それは――――、

 時が止まったように固まっていた洵一に微かな変化が。何かを感じ取ったらしい。鼻先が微動する。

 

「――――アめが……」

 

 外部から取り入れた情報が電気信号として脳に受信され、言葉というプログラムを実行した……その時。レンズが一瞬で砂嵐に覆われた。

 同時に、言葉すら許さんとばかりに激しさを増す頭痛。そのままでは本当に頭が割れるんではないかと危惧するほどの苛烈さ。思わず折れそうになる膝を電柱に身体を預けることで何とか支える。幸いにもそう長くなかった視界の乱れと同じく、頭痛も次第に元の恒常的な痛度へと戻っていった。

 

「は――ぁ、は、はぁ、はぁ」

 

 少しだけ出来た余裕を崩れた呼吸の補整にあてながら、洵一はふと考える。

 言葉の次は視界に影響がでた。今は呼吸も問題なく行えているが、いつまでも可能だという確証はどこにもない。

立て続けに消えていく灯火。次は何を失くすのか。考えただけで、その場に蹲って頭を抱えたかった。拭えども拭えども払えぬ恐怖を、目に映る全てのものにも味あわせてやりたかった。

 時間を追うごとに欠落していく人間としての機能――――否、人間として生きるだけならば、言葉はいらない。喋れなくなっても、終生、光を見ることができない人間がいたとしても、その人は“人間”というカテゴリーから外れるわけではないからだ。

 洵一が恐れているのは“人間(せいぶつ)”としての機能の停止ではなく、“人”としての機能の停止。

山神 詩織が自身を人形に変えてまで与えた、洵一を“人”足らしめている最大にしてただ一つの要因。天秤に掛けて命よりもなお重い、そのたった一つの小さな救いを失うのが怖かった。

彼がこれほどまでに“人”からの隔絶を恐れるのは物言わぬ人形に戻るからでも、闇に支配された海の底に還るからでもない。

過去を奪った機械人形に憎悪を向けるでもなく、それどころか唯一残された未来をも差し出した山神 詩織の隣に、橘 洵一として一秒でも長くいられないことが何よりも怖かった。

それに比べれば、自分の死など路傍の石ほどの価値もない。瑣末な事象だ。

故に、洵一は止まらない。

日常収集が命題であり、自身の命に執着を持たない洵一は、手足をもがれようが、世間の非難を一身に浴びようが、この事件を解決までこぎつけるに違いない。

 あぁ、そうだ。きっと少年は解決する。

 例え手にいれた大切なモノを全て――――、

 

「――――!!?」

 

 突如、洵一を襲った違和感。

 だが、背中に氷柱を詰め込まれたにも等しい、この悪寒を表すのに違和感という言葉ではあまりにも役不足だ。

 全身を容赦なく縛る寒気に導かれたのか。脳裏を過ぎった嫌な予感に、洵一は咄嗟に西原家のほうへと視線を移したのと、ほぼ同時だった。

 西原家の通りに面した二階の窓の一つが、夜の静寂を破って砕け散った。

 最中、洵一は何が起こったのか理解できなかった。

 すでに霧の如く消え去った違和感にも気付かず、月明かりを反射させながら舞い落ちるガラスをただ呆然と眺めていた。

 それでも、意識が凍っていたのはほんの数瞬。

すぐさま気を取り戻した洵一は、電柱の陰から飛び出して、西原家のドアを無我夢中で叩いた。

 声を出せない分だけ力を篭めたつもりだったのだが、いざ鼓膜を震わせた音は存外に大きく、加えて時刻は丑の刻。眠っている西原家の住人はなかなか応答せず、叩く手に熱が篭っていくのも分かるのだが、これではいつ近所から苦情の声が上がってもおかしくはなかった。

 ようやく西原家から反応が返ってきたのは、ドアの前に辿り着いてから数分後。

 家の中から複数の足音。そこから玄関の光が点き、ドアが開くまで少しばかり間を要した。

 普段はなんということのない玄関の明かりも、暗闇に慣れた目には圧倒的すぎる。

 網膜に染みる光を堪えて、広がった洵一の視界に映ったのは、初老の男の険しい表情。見た目の年齢から推測するに、おそらくこの人が西原兄弟の父親なのだろう。となると自然、その後ろで怯えた面持ちをしている、男と同じ年頃の女性は母親ということになる。

 どこか間の抜けた寝巻き姿とは相反して、二人の目は真剣そのもの。突き刺さる視線は間違いなく不審者に向けられたそれだ。

 でも、考えてみれば無理からぬ話しだ。

 夜中にいきなりドアを何度も叩かれて、すんなり笑顔で応対してくれる人なんているわけがない。仮にそんなヤツがいるとしたら、ソイツは単なる阿呆か、極度のお人好しのどちらかだ。

 まぁ、極度のお人好しを阿呆とも言うのだが。

なんにせよ、二の句も告げないうちに警察に通報されなかっただけ僥倖といえる。

――――しかし、

 

「――――こんな夜中に」

 

 元より洵一に言葉をかける気はない。さらに言うのならば、グダグダと説明している暇すらない。

 夜中の訪問を糾弾しようとしている男を押しのけて、洵一は玄関に足を踏み入れる。

 

「おい、何だお前!?」

 

 何やら耳元が騒がしいが、洵一に取り合う様子は見受けられない。血相を変えて廊下の奥に消えていった婦人も視界に入っていない。おおかた警察にでも連絡しているのだろうが、そんなことはどうでも良い。

 夫婦の様子からして、今この家で起こっている異常に気がついていないようだ。

 すぐさま洵一は目の前の階段を上るべきか、それともこのまま廊下に進むべきか思案しようとして、

 

「先、――輩?」

 

 見覚えのある少年が階段の半ばまで降りてきていた。少年は突然の来訪に驚きと戸惑いを見せていたが、洵一の張り詰めた顔に何かを感じ取ったらしく、

 

「兄の部屋はこっちです!」

 

 洵一を案内するように、先んじて階段を上がった。洵一は靴も脱がないまま西原 隆之に続いて階段を駆け上がる。

 

「――――!!?」

 

 背後からはまだ怒鳴り声が聞こえるが、洵一の背中が止まる気配は皆無。ただ、依然として続いている悪い予感が、時を重ねるごとに現実味を帯びて洵一の焦慮を煽っていた。

その影響だろうか。たった十数段の階段がやけに長く感じられる。まるでここだけ時間が停滞しているかのようだ。

 そうしてやっとの思いで二階に辿り着くと、先に上がっていた弟君が廊下の一番奥の扉の前で、洵一の到着を今か今かと待っていた。

 どうやらあそこが西原 伸宏の部屋のようだ。

 問題の部屋の前まで来た洵一。一も二もなく蹴破りたい衝動を堪えて、扉をノックする。 

 

「「…………」」

 

 どんな些細な音も聞き逃すまい。

心に強く誓って、耳を澄まし数秒待ってみるものの、返事は返ってくる様子はなく、再び蹴破るべきか思案し始め――――、

 澄ました耳に、再度ガラスの割れる音が届いた。その音は確かに扉の向こうから。

 隣にいた弟君の表情が悲痛に歪む。

 

「先輩!」

 

 促されるまでもない。

 洵一はドアノブを回そうと掌に力を加えるが、がちゃり、と鈍い音を立てただけで、ドアノブは一センチも回らなかった。

 人の生死がかかった状況だ。手段を選んでいる猶予はない。そう判断した洵一は一歩後ろに下がった。

洵一の行動を見た弟君は何かを察知したように目を見開き、倣うように慌てて後退した。

 不規則に上下する肩を整え、右半身に構える洵一。そして、

 

「――フゥ」

 

 ぶつ切りで吐いた短い呼吸を合図に、洵一の身体が右回転した。

そこからの流れはまさに閃光。

 少なくとも、起因の傍にいた弟君にはそう思えた。

 洵一の身体が回転したと認識した次の瞬間には、開くはずのない扉が条理を捻じ曲げて轟音と共に部屋の中に倒れていた。

 何が起こったのか理解できない弟君は声をあげることもできなかった。

 なのに、条理を捻じ曲げた張本人はというと、地面と水平に伸びた右脚を下ろし、何の躊躇いもなく、隔てる物の無くなった部屋の中へと入っていった。

 弟君はそこでようやく、洵一が後ろ蹴りでドアを蹴破ったのだと気付いた。

 倒れたドアを踏み越え、室内に足を踏み入れた洵一。

床には蹲って震える西原 伸宏の姿はなく、残ったのは主の居なくなった空っぽの部屋だけだった。正面には無残に砕け散った窓ガラス。天気が崩れる前兆か、取り付けられたカーテンが湿った風にフワフワと揺れている。

 差し込んだ月光に反射するガラス片が、この状況に不釣合いなほど美しい。

 ふと視界に入ったある物を屈んで足元から拾い上げ、洵一はジーンズのポケットにしまう。

 

「先輩、兄は……」

 

 背中から弟君の声。洵一が答えるまでもなく、文字通り目の前の“答え”に息を飲む気配がした。

 周囲を見回す洵一。

 窓は正面だけじゃなく左側にもあった。ちょうどベッドの真横にある窓が開け放たれている。

 

「――――!!!」  

 

 もしやと開け放たれた窓に駆け寄る洵一。窓から外を覗き、

 

「チッ」

 

予想以上に状況が最悪なのだと悟った。

 すぐさま割れたほうの窓を開ける洵一。そして何を思ったか、窓の縁に足を掛けた。

 この行動にはさすがの弟君も驚きの声をあげる。しかし、

 

「先輩、なに――――」

 

 飛び降りた洵一の耳朶に弟君の声は最後まで届かない。 

 躊躇いは絶無で、浮遊感は秒にも満たなかった。

 気付けば足の裏から発生した衝撃が、膝を曲げても殺しきれなかった分だけ全身へと走っていった。だが、洵一は表情を苦痛に歪めるどころか、曲げた膝をバネのようにして、一気に最高速度まで加速した。

 たかだか家屋の二階。飛び降りた程度でこの身体がどうにかなるはずもない。カーテンを使ったとはいえ、素人でも飛び降りられたんだ。ならば、訓練を受けた洵一に出来ない道理はない。

 

「はぁ、はぁ、はぁ」

 

 今夜に限って、息を切らせながら走り続ける洵一を見物するモノは誰もいなかった。月ですら厚い暗幕に隠れ、姿をみせずにいる。

 先ほどから何度もT字路や十字路に差しかかっているが、洵一は迷うことなく道を選んでいく。

 その淀みのない動きはまるで、西原 伸宏という獲物を追う猟犬のようだった。

 事実、洵一の嗅覚は猟犬とまではいかないものの、常人を遥かに凌駕している。

 もちろん人や車の多い時間帯や場所なら、臭いで人を追跡するなんて芸当は不可能だ。

 しかし、今は人気の無い深夜。幸いなことに雨も降っていないから、臭いも残留しやすい。人を追うにはうってつけの環境だ。

 湿気に混じった西原 伸宏の臭いを嗅ぎ分けながら、洵一は事前に記憶しておいた緑秋町の地図を広げる。事前といっても、記憶したのは武家屋敷に移住した時だ。

 これからは行動に制限を課せられないからと、大雑把に覚えたのだが、洵一自身、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。

 それからどのぐらい走ったか。

 見失ってこそいないが、体調が優れないのも確かで、身体の酷使はそう長く続けられないだろう。

 元を糺せば、西原 伸宏が部屋から逃げ出さなければこんなに苦労することはなかったのだ。

 男の理性が意外に強固なのか、あるいは恐怖のあまり、男の生存本能が部屋に留まる事を拒んだのか。

 怖いのなら布団に包まって震えてくれていた方が、まだ手の打ちようはあった。

 まぁ、今更何を言ったところで起こってしまった事象が変えられるわけじゃない。

 今はやれることを精一杯やろう。ヒト一人が出来ることなんて、それぐらいしかないんだから。

 洵一が今出来る最大限。尾を引く西原 伸宏の臭いを追跡しながら、頭の中で広げた地図をなぞっていく。西原家から大通りへ。かと思えば時には入り組んだ道を。

 脳裏に浮かぶ見えない地図と、目に見える“結果”まで繋がる手がかりは、洵一をある場所まで導いた。

 思わず足を止める洵一。ひしめき合う住宅街に突如現れた壮大な森林。二つはまさに陰と陽。真逆の存在でありながら、しかし、暗闇まで続くコンクリートの道と、キッチリと確保された道幅、闇をさらに深める数少ない外灯からは“人”の気配を感じる。

何とも形容しがたい場所だが、自分の立っている位置を地図と照合すると、あっさりとその場所は判明した。

緑秋町第一森林公園。

日本でも十指にはいる広さを誇る、緑秋町自慢の公園だ。

日が出ているうちならば、そこに明確な目的がなくとも何気なく寄ることのできる、さぞかし門戸の広い場所なのだろう。

でも今は、老若男女問わず、生きる物全てを拒絶する不可視の壁を作りながら、昼時以上に不気味な有引力で獲物がかかるのをジッと待っていた。

誘蛾灯に誘われる蛾のように、先の見えない闇へと進んでいく洵一。

 それはまるで、彼の行く末を暗示しているかのようだった。

 羽織った黒いジャケットがなびく。一面の闇の中、あたかも自分の足跡を残すように。

 迷子センターすら存在する第一森林公園の中にいながら、洵一の足取りが曇ることはない。

 レンガ敷きのお洒落な遊歩道も、不均等な外灯も、生暖かい視線を幻視する不気味な木々ですら、洵一の気を逸らすには至らなかった。

一直線に最速最短で目標へと。

発見が早ければ早いほど、西原 伸宏の生存率は上昇するのは確かなのだ。

 走って、走って、我武者羅に脚を動かして、何を渇望しているのかも気付かないまま、ただひたすらに結果を求めて、

 

「ハぁ、はァ、は、ん――はぁ、はぁ」

 

 願いは叶えられる。

予想しうる限り、もっとも最悪な形をもって。

立ち止まる洵一。脳ミソが認識不良を訴えていた。

それは月の恩恵を賜れないことだけが原因じゃないはず。何しろ周囲の風景はちゃんと理解できているのだ。ブランコやすべり台といったポピュラーなものから動物を模した遊具まで。朝陽を求め、ひたすらに夜を耐え忍ぶ、多種多様な遊具は認識できるのに、たった十数メートル。声を出せば簡単に届く場所で流れている時間の意味だけがまったく理解できなかった。

 唯一、分かるのは視界の中で影が蠢いているということ。成人の男性より一回り大きいヒト型をした歪な二つの影が、あたかも死肉に群がるハイエナの如く、一心不乱に何かを貪っていた。

 そんな不吉なイメージを浮かべたからに違いない。

 グチャグチャと、微かに水気の混じったその音が、肉の潰れる音に聞こえたのは。

 真っ白な頭の端で、アレは人間じゃないのだと、アレの足元に転がる肉塊はもう人間足りえないのだと悟らされた。

 

「――――」

 

 目の前の光景と“日常”との隔たりに喉が鳴る。

 そこでふと疑問が脳裏を過ぎった。

 眼前の光景は見慣れているはずだった。

 そのうえ、自分は目の当たりにする側ではなく、この絵を創りあげる側だったはず。

 なのにどうして。

 どうして自分は、これほどまでに動揺しているのだろう? 

 こんな些細な疑問すら陽の目をみることはない。

 理解が及ばないからじゃない。そもそも“思索”する時間を与えられなかった。

 ピタリと影の動きが止まる。

暗闇に目が慣れてきたおかげで、影の踏んだ砂埃まで鮮明に拾うことができるようになってきた。その姿、ヒト型をした獣という歪なカタチの細部まで。

手足は獣特有の躍動感を持ちながら、人間だけが持つ繊細で緻密な設計が二足歩行を可能とさせ、新たな生物として完成されたフォルムを披露している。

が、それに引きかえ、大きく開いた口元からは、荒く野卑な息遣いが漏れる。息が空気に溶けるたび、生臭い獣臭に鼻腔が侵され嘔吐をもよおしそうになる。獲物の骨を噛み砕くために大きく発達した牙からは、見知らぬ誰かの血が滴っていた。

 そして見るもの全てを萎縮させる野性の眼光。

 もちろん、その視線に貫かれた洵一とて例外ではない。全身を未だかつて味わったことのない感覚が駆け抜ける。握った掌は汗に濡れ、気を抜けば膝が笑い出しそうだ。全て無かったことにしてこの空間から逃げ出したい。

 実際、理性は目を逸らせと命令するが、イチ生命としての本能がそれを拒む。

 視線を外せば絶対に避けるべき何かが決定付けられてしまうような気がした。

 あるいはそれが幸いしたのかもしれない。

 頭上高く跳び上がった獣を見逃さずに済んだのだ。

 たかが人間一人。全力を出すまでもないと見切ったのか、洵一に躍りかかって来たのは一匹だけだった。

通常の獣ならば、複数で挟み撃ちをかけるなり、囮を使って背後から仕掛けるなり、手を抜くということはしないだろう。獣の狩りに、手加減という言葉は存在しないのだ。

獣人のみせた判断はまさに人間が見せる傲慢に他ならない。この行動はヒトと獣、両方の要因を持つ獣人ならではの思考といえる。

されど、獣人の判断は過ちにあらず。

 

「――――!!?」

 

 常人では決して届かない脚力で跳んだのだと認識した時は、すでに遅かった。弓を引くように、大きく後ろに絞られた右腕が目の前まで迫り、洵一は呆然と立ち尽くす。憐れにも死神の鎌に魅入られた獲物は、視界いっぱいの死を受け入れ――――。

 獣人の右腕は空を切り、洵一は大きく後ろへ飛び退いた。

 不意打ちに等しい爪撃を避けることが出来たのは他でもない。長年の戦闘訓練と膨大な実戦経験による条件反射だ。

 それでも、回避というより逃走に近い後退。当然のように空中で体勢は崩れ、殺しきれなかった勢いは地面に身体を転がすことで補った。そのままの流れで地面に手を着き、後転の要領で勢いよく立ち上がる。

 勢いを完全に止めなかったのはこの為だ。

 すぐさま息を整える洵一。

 ある程度予測はしていたが、獣人の運動能力はそれを上回っていた。

とはいうものの、速力は獣を超えても、光速に達することはない。それだけなら洵一でも十分に対応できる。

しかし、獣人は獣を足元にすら近づけさせないどころか、おそらく格闘技に数十年精通した者でも応戦できないほど強かった。

原因は洵一の腹部にキッチリと刻まれている。

 

「――――」

 

 右腹部が火に炙られたように熱い。獣人から目を離せない洵一は確認できないが、確かに破けた服の間からは鮮血が滲んでいた。さっきの一撃を完全にかわしきれなかったようだ。見れば、獣人の鋭く尖った爪先にも、真っ赤な血がこびり付いている。

 ハッキリ言ってしまえば、獣人の攻撃は酷く雑だ。

 目についた箇所を攻撃し、外れれば、また最初に目についた箇所を攻める。そこには理論も何もあったものではない。効率も悪い。――――それが常人ならば。

 獣人の爪撃は部位を問わない。

皮を、骨を、肉をも貫通し、被弾箇所を急所へと変えてしまうのだ。

 それ故に、腹部の傷はまだ浅手だが、あれをまともに喰えば致命傷は必定。

 一撃たりとも許されない緊張感に手が無意識に衣服のポケットを探る洵一。ここ数日衣服のポケットに物品を入れた記憶はないが、圧倒的不利な状況において、逆転の光明を模索するのは精神衛生上必要な行為だった。

 けれど、現実には何も入れていない。入れていないのに、入っているはずが無いのだ。

 洵一の行為は自身を死から遠ざけようと人間がおこなう自慰行為と大差はない。

 ジャケットのサイドポケットに沈んだ右手は空気を握り、絶望を掴み出すはずであった。

 指先に当たる固い感触。

 必殺を期した一撃を避けられた獣人は、目の前の少年が狩られるだけのを待つだけの羊ではない、と評価を改めらしい。今は足を止め様子見に徹しているが、どんな刺激が獣人達の攻撃を誘発させるか定かではない。

 慎重に、ゆっくりと、綿毛を扱うように唯一の希望を取り出して、洵一は自身の目を疑った。

 掌に収まっていたのは縦十三センチ、横二センチ、厚さ一センチほどの長方形型をした鉄板だった。

見た目だけなら鉄製の定規に見えなくもないが、断定できないのは片方の先端が弾頭のように半月状をしていたからだ。くわえて、先端から末端まで一直線に溝があり、末端には留め金のような金具までついているのだから、ますます見当がつかない。つかないのだが、洵一はその鉄塊に既知感を覚えていた。

 橘 洵一として過ごした僅か一ヶ月間の間の記憶か、それ以前に記録した映像か。

 一筋の光明も見出せない状況、例えこれが凡庸な鉄塊だとしても無理やり希望に変えなくてはならない。

 記憶の箱をぶちまけて、必死に用途を探る。

 敵もずっと待ってくれるわけじゃない。

 代償は元より覚悟の上。再び痛度を増していく頭痛を無視して、さらに深くへ、記憶の深海へ潜っていく。

 

「――――グッ」

 

 苦痛に堪え切れない喘ぎが零れる。直後。

 仕留める算段がついたのか、代償に表情を歪ませる洵一をあざ笑うかのように、獣人達が一斉に弾けた。

 真っ直ぐに洵一のもとへ駆けるのではなく、二匹で左右から。人間を遥かに超える速力で洵一の後退を無効にし、なおかつ、ワザと加速に差をつけ、時間差攻撃で確実に洵一を仕留めに来た。

 左右からの挟撃に嘆く余裕もなく、一匹目の爪激が洵一の命を貫かんと中空を疾走する。熟練の担い手が放つ槍の刺突を彷彿させる一撃。

スピードは一瞬で常人の認識範囲を逸脱し、その腕を相手の無防備な胸に突き立てる。

 余裕の無い今の洵一に、避ける術などあるはずも、それ以前に思いつくはずもない――――、

 

「――――!!!」

 

 ただし、鼓膜に響いたのは骨の潰れる乾いた音ではなく、鉄と鉄がぶつかったような、甲高い金属音。

 宙に咲いたのは鮮血の華ではなく、殺し合いの最中だということを忘れてしまうほど鮮やかな火花だった。

 ほぼ同時に洵一が自ら膝を折った。獣人の視界からは、あたかも洵一が突然消えたかのように映っているのだろうが、やはり屈んでいるだけにすぎず、本当に消えているわけではない。獣人が視線を少し下げればこの小細工は瓦解する。

 だが、一瞬あれば十分。

 元より敵を欺くことが狙いじゃない。

 屈む勢いを利用して地面に左足を打ち込み、そのまま腰を捻転させた。

 洵一の動作は西原家でドアを蹴破った場面を思い起こさせるが、今度はコンパスで円を描くような滑らかさで、脚を地面と水平に滑らせ、獣人の足を払った。

 いっそマヌケなほどあっさりと尻餅をつく獣人は、自身の身に何が起こってまったく理解できていないのだろう。身じろぎ一つ出来ないでいる。

そんな絶好の的を目の前にして、洵一は何故か間髪いれず何もない右方の空間へと右腕を振るった。

 少し遅れて再度金属音。

 奏でたのは洵一と後から攻撃を加えるはずだった獣人。

 そして遅れをとったのは、やはり体格で劣る洵一のほうだった。弾かれた洵一の身体は外に流れ、生まれた決定的な隙を――――洵一は強引にねじ伏せた。

 代償は踏ん張った右足の筋繊維。

 右足に流れ込む許容量を超えた圧力に、脹脛が鈍い痛みを走らせる。

けれど、洵一はその反動すらも利用して、右足を空中へと放った。鞭もかくやという、しなりの利いた蹴撃は完全に獣人の死角をついていた。

普段ならば、こんなモーションの大きな蹴りは決まらないだろう。しかし、獣人は体勢の崩れた洵一に止めを刺そうと、右腕を大きく振りかぶっていた。

がら空きになった左側頭部へ洵一の右足が吸い寄せられていく。

これ以上ないといえる角度ではいった一撃の証明は、厚い石壁を叩いたような鈍い音。

 果てしなく延びる時間。空白に塗り潰された空気を破ったのは洵一の顔に広がった驚愕の波紋だった。

 咄嗟に後方へ跳ぶ洵一。間に合うかどうかは五分と五分。

 一秒前まで立っていた場所を、カマイタチにも似た風が通り過ぎる。

 ザッ、と砂を擦って着地。

 どうにか間に合ったようだ。

 今のを喰らっていれば、もれなく臓腑がこぼれ落ちていた。

 洵一の額を一筋の汗が伝う。

 獣人の最初の攻撃から約一分半。

 

「ハァ、はぁ、はぁ、ハァ」

 

 僅か数十秒の命だったはずだった少年は、未だ地に足をつけ、不満足ながらも呼吸を繰り返しているが、彼の切羽詰った表情を見る限り、助かる心算があったとは到底思えない。

 偶然か必然か、どちらにせよ、右手に今もなお握られている鉄板がなければ、彼の命運はとうに尽きていた。

 そう、この鉄板こそ、先の金属音の正体に他ならない。変化もあった。十三センチほどあった鉄板の長さが倍近くにまで伸びているのだ。

よくよく観察してみれば伸びた部分の鋼は薄く、先端も鋭角で、持ち手とは明らかに違う。

 それは見れば万人がナイフと答える代物。しかも携帯性に優れたバタフライナイフだ。

 ようやく念願ともいえる光明を見出した洵一だが、とても楽観視できるような状況ではなかった。

 洵一の履いている靴はコンバットブーツといって、軍でも使用されている耐久性の高い特殊なブーツで、さらにつま先を鋼板で覆っている特別製なのだ。

 つまり、先ほどのハイキックは金属バットの殴打にも等しい攻撃だったのだ。しかし敵は悶絶するどころか、すぐさま反撃してきた。

 被弾箇所全てを急所に変える攻撃力と鉄の殴打にもフラつかない防御能力の高さ。

 個体同士に多少の差はあれど、二匹ともが橘 洵一という存在を端から端まで凌駕していた。

 獣人との打ち合いという身に余る奇跡を授けたナイフも本来、サバイバルナイフのように頑丈さに特化した品物ではない。

 後、何度敵の攻撃に耐えられるか。

戦況は相も変わらず。防戦一方ではジリ貧は確実。ここは攻勢に打って出なければ未来はなかった。

 ジワリと、この絶望的状況において、それは当然のように浮かんだ。ナイフを握る手が汗に濡れ、思考が一気にもつれだす。

 喉がカラカラに乾いて、まともに呼吸もできない。

でも、本当に怖いのは死ぬことじゃない。身の毛もよだつほど真に恐ろしいのは、

 

「殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ、殺さなくちゃ」

 

 目の前の敵を殺せないこと。

それは橘 洵一 司忌の存在意義だから。

 

 脳裏を包み込む暗雲を掻き消すように頭を振る。

 

「違う。違う。違う」

 

 殺したいんじゃない。

 約束したんだ。もう殺さないと。彼女と同じ道を歩くのだと。

 

 生きるために殺すのではなく、

 

 だから。

 

 殺すために生きる怪物。それが、

 

だから。

 

橘 洵一の正体だ。

 

「――――殺さなくちゃ」

 

 洵一は呼吸を止め、唯一開いた右目を閉じる。止まったのは呼吸だけじゃない。自身の内に渦巻く感情や思考、人間としてのおよその機能を停止させて、橘 洵一という存在が時間の流れへと溶け出していく。

 敵を目前にして目を閉じるという、普通の神経では考えられない愚行を平然と行う洵一を前にして、獣人たちも間合いへ踏み込めずにいた。

 洵一にとって獣人が未知の生命体であるように、獣人たちにとっても洵一は、今まで相対したどんな人間(えもの)よりも強く、安易な選択が許されぬ存在であると、野性の本能が告げているのだ。

 やがて閉じていた瞼がうっすらと開いていく。右目ではなく、今まで開くことの無かった左目が。徐々に、徐々に。

 そうして完全に光を得た左目を、獣人たちが捉えるより先に、洵一の身体がブレた。それは獣人の体調不良でも、目の錯覚でもない。

 電波の悪いアンテナテレビのように、洵一の輪郭が乱雑に揺れている。

 歩き出す洵一。咄嗟に身構える獣人。

 歩数を重ねるごとに揺れは大きくなり、十メートルもしないうちに洵一が二人に分裂した。やはり輪郭自体は曖昧だが、地面を蹴る足音はキッチリ二人分聞こえる。

 

――――戯曲」

 

 そんな声がどこからともなく響いた。

 途端に表情が確認できないほど曖昧だった洵一の輪郭が、もはや形を成さないほどに崩れた。

スピードを上げたのだと気づいた時には、加速は終了していた。0から10への圧倒的な加速。

 獣人に遠く及ばない速力も、相手の不意を衝いたのなら話しは別だ。

 かろうじて反応できた一匹が、鼻っ面まで迫っていた洵一を薙ぐが、残ったのは裂かれた空気の残響と、追従する微風。

 そこに橘 洵一の姿は無かった。

 一瞬の静寂。

 異変に最初に気付いたのは、空振りした獣人のすぐ隣に立っていた、もう一匹の獣人だった。

 背後に感じる気配。

 いつもならば振り向きざまに牙を突きたて、首の骨ごと枯れ枝のように噛み砕くところだが、獣人の全身は彫像と化したまま動けなかった。

 濃密で、かといって荒々しくはない。頭頂部からつま先、心の奥底まで。こちらの全てを見透かしたような、静かな視線が獣人を絡めとっていた。

 背筋が訳もなく寒い。動かない足が必死に前へ進もうともがいている。

 獣人はこの時、一度も体験したことのない、恐怖という感覚を確かに味わった。そして獣人の本能はそれを近づけさせまいとする。

 依然、背中を這い続ける死を払おうと振り返りざまに爪を一閃させて……獣人は今度こそ永久に自らの意思で動くことはなくなった。

 獣人に大した変化はない。しいていうなら、胸の真ん中にナイフが刺さっているぐらいだ。本当に何気なく、すぐ目の前に突き刺せそうな場所があったから突き刺した。そんな感じだ。

 しかし、そのちっぽけなナイフが獣人にもたらした変化は深刻だった。

 手足の末端から無くなってしまったんではないかと錯覚するほどの喪失感が身体を蝕む。

 獲物が懐にいるというのに、思考がまとまらないどころか、敵意さえ浮かんでこない。

 ただ呆然とつっ立ったまま、やがて横倒しに傾いていく。地面へ倒れ、喪失感が全身へと達して意識が途絶える間際、獣人の視界に映ったのは、紛れもなく実像の橘 洵一。俯き、前髪に遮られてなお爛々と輝く、エメラルドグリーンの左目だった。

 

 

 

 

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