驚くべき点は運動能力で上回る獣人を倒したという“結果”ではなく、獣人を絶命させた“手段”だ。

 あんな大量生産された市販のナイフでは、獣人の胸を刺すことはできても、心臓まで届くとは到底思えない。

 第一、心臓は胸部の中心からやや左寄りにある。しかし、洵一が刺したのは胸のど真ん中。とてもじゃないが一突きで絶命させられる位置ではない。

 他に何か、凡百のナイフで獣人を一撃のもとに仕留めうる要因があるはずだ。

 不意に俯き加減だった洵一の顔が上がる。自然、仲間の倒れる様を呆然と眺めていた獣人の視線と、深緑の視線が交わって――――獣人は自分の死を予感した。

聞こえるはずのない警告信号が鼓膜を叩き、本能の命ずるまま、死神の足元で粒子へと変わっていく同族を見捨てて、獣人は距離を開けた。開いた距離はすなわち獣人が洵一という存在に感じた恐怖の度合いそのもの。

 深緑の瞳がここにきて獣人と洵一の立場が完全に逆転させていた。

 当初は狩られる側だった洵一が、今は狩る側へと回っている。つまり洵一は圧倒的に有利な立場。気持ち的にも幾分かの余裕も出来て、思考もスムーズになるだろう。なっているはずなのに、洵一の顔は苦しげに歪んだまま。荒く上下した肩を見る限り、疲労も回復されていないようだ。実際、彼の疲労はさっきとは比べものにならないほど蓄積されていた。

 原因は恐らく先ほどの歩行によるものだろう。

 常人に不可能なことをなそうとすれば、相応の負担を強いられるのは自明の理。負傷した右足の脹脛の痛みが酷くなるのも当然すぎる結末だ。どう贔屓目に見ても長期戦は不利。

 それを誰よりも痛感している少年が、真正面からの突貫を選んだのも致し方ない話だが、あまりにも短慮。

 よしんばこれが何らかの策であったとして、策謀とは元を糺せば、敵より劣っている能力を補うためにある。しかし、洵一と獣人の身体能力の差は、策を一つ弄したところで覆るほど拮抗もしていないのだ。

 そのうえ空白は十五メートル弱、獣人が迎撃するには十分すぎる距離。

 案の定、洵一が間合いへ入る前に、獣人は迎撃の準備を整えていた。

 体格で劣る洵一が打倒するには、獣人の間合いからさらに一メートル距離を詰めなければならない。この局面においてはあまりにも遠い一メートル。

 そうしてついに獣人の間合いへと踏み込み、死出の道を往く直前、洵一はジーンズのポケットから小石を取り出して、獣人の顔面へと弾き飛ばした。

 無意味にも等しい攻撃。無意味故に予想していなかった獣人の眉間に小石が当たり、獣人は思わず目を瞑ってしまった。

 この時、一メートルの距離は消滅した。

 獣人はすぐさま視界を取り戻し、獲物を探すが、何もかもが手遅れだった。懐にもぐりこんだ洵一に気付くことなく、意識は断絶し、獣人の命は身体ごと灰へと分解されていった。

 そのまま積もることなく、夜風に乗って空に攫われていく灰を最後まで見送った後、

 

「……ふぅ」

 

 洵一は左目を閉じて疲労の濃い溜息を吐く。急速に熱を取り戻していく思考。じくじくと痛む脹脛が、自身の生を実感させる。そして再び開いたのは右の瞼だった。そこに覗くのは何の変哲もない黒瞳が遠く、今となってはただの肉塊となった西原 伸宏を視野に入れる。

あれにはもう以前の面影すら残っていないだろう。

 そんな結果をもたらされて、西原 隆之が喜ぶはずもない。

 

 なら、この殺し合いの意味は一体、どこにあるんだ?

 俺はなんために、獣人を……、

 

「――――うっ」

 

 胃からせり上がるよう嘔吐感。口内に広がる酸味。口元を掌で覆って堪えようとするが、耐え切れず身体がくの字に折れる。

 

「ごほ、ごほ、ごほ」

 

 殺した。また殺した。

 脳裏を占める後悔。吸い取られたように全身から力が抜けて、余裕が生まれたはずの思考はあっという間に端へと追い詰められる。折れそうな膝。無意識に踏み止まったのは奇跡に近い。

 

 だって、相手を殺さないとこっちが死んでたんだ。

 

 だから殺したのか? 殺していいのか?

 

 でも、でも。

 

 殺せば殺すほど、日常から、山神 詩織から遠ざかっていく。

 

 それが何よりも――――怖い。

 

「――――!!?」

 

 背中からガサリ、という物音。そこから寸分の間もあけず、今までに無かった気配が突然現れた。

 咄嗟に気配のする空中へと振り向くが、時すでに遅し。

敵はもういないという油断が意識の切り替えを妨げ、体力の低下が反応を鈍らせた。

 それはまさに一瞬。秒にも届かないほどの隙間。しかし、この刹那において瞬きにも満たない空白はあまりに致命的すぎた。

 視界で踊るは人ならざる獣。

 今しがた倒したはずの獣人が二匹、再び獲物へと襲い掛かってきた。

 

――――違う。

 

 余裕を奪われながらも、切り替わった思考は冷静に敵を分析する。

 四匹とも同じ容姿をしているが、獣人は間違いなく灰に変わった。生きているはずがない。

 したがって二匹は別物。

 ずっと機を窺っていたのか、それとも散開していた仲間が戻ってきたのか。

 どちらかは判然としないが、いずれにしろ流れた時間は戻らない。

 出遅れた洵一に出来ることといえば、貫かんと迫る獣人の爪にナイフを合わせて、爪撃を防ぐぐらいしか残っていなかった。迫る爪撃。大雑把に当たりをつけて、ナイフを我武者羅に振るう。

 ぶつかる獣爪と鋼。飛び散る火花。

 これではまったく最初の焼き直しだ。

 唯一、相違点があるとすれば、洵一の持つナイフの刃が半ばからへし折れた、という当然すぎる事実のみ。

 

「――――!!!」

 

 悠長に驚いている暇もない。すぐさまバックステップで態勢を整えようと、右足で地を蹴って、

 ビキリ、と、脹脛が取り返しのつかない悲鳴をあげた。

 

「――――ぐっ」

 

背筋を駆け上がる鈍い痛みを堪えて下がろうとするが、やはりそれほど距離を開けることが出来ず、着地した足元もおぼつかない。

そこへすかさず二匹目の獣人が間を詰めていた。

 崩れた体勢。

 視界を覆う爪撃は回避不可能。

 獣人の爪が腹部に突き刺さり、背中へと突き抜けた衝撃で、そのままの後方へ飛ばされた。折れたナイフが手からこぼれ落ちる。身体は砂煙を昇らせながら地面を滑走し、やがて滑り台にぶつかって停止した。

 

「――――がはっ」

 

 口から吐き出した血が、タートルネックセーターの白い生地を赤く染める。腹部からもジンワリと血のシミ。どうやら滑り台にぶつかった時、後頭部を強打したらしい、意識が真っ白に洗浄され、手足に力が入らない。

 ハッキリとしないボヤけた眼界で、獣人たちがにじり寄ってくる。

 

 十五メートル。

 

 獣人たちが洵一のもとに辿り着けば、洵一という存在は終幕を迎える。

 しかし、洵一は身じろぎ一つ出来ないどころか、抵抗の意志を示すことすら出来ない。

 

 十二メートル。

 

遠のいていく意識。世界から音が消えて、徐々に視界が狭くなっていき、完全に落ちようかという間際。

 

十メートル。

 

 一陣の風が吹いた。髪を僅かに揺らす程度の微風。普段なら何ということのない微風に呼ばれたように、獣人の遥か後方の曇天に影が割り込んだ。

 

 八メートル。

 

 そこから間断は無かった。

 空気を裂く小さな風きり音が聞こえたと思ったら、獣人が突然、逃げるように大きく後ろに跳躍した。退いた距離は退避。なりふり構わず獣人は逃げたのだ。

 その直後。

 獣人のいた場所に、大気の悲鳴を伴って幾筋もの銀光が落ちた。音という音を掻き消すほどの轟音。撒き散る岩塊。舞い上がる砂煙。惨状はまさに落雷。――――いや、それ以上だ。

 砂煙がゆっくりと完全に晴れた後、残ったのは無残に抉れた地面に、洵一と獣人を隔てるように突き立った黒鍵の群れ。

 今のが天から降り注いだ神の(いかづち)だとするのならば、重力の枷を感じさせない足取りで洵一の前に降り立った濃紺の法衣は、まさに神の遣いか。

 でも、おかしな話だ。洵一の知り合いにブーツを履く修道女なんていないはず。だが、洵一は目の前の、自分を守る背中に既視感を感じていた。

 誰なのか必死に思い出そうとするが、頭がボーっとして、考えることが出来ない。

 やがてその疑問に答えを絞り出すより先に、視界が暗転していき、螺旋を落ちるように意識は収縮していった。

 

 

 

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