湿った風に乗せられた雨粒がポツリと肩に当たる。

 次は膝に腹にと、時を追うごとに場所を変えて、雨粒は濃紺の法衣に足跡を残していく。

 どこからともなく聞こえる遠雷は雨足が強まる予兆か。

 このままでは本格的に降り出すのも時間の問題だろう。

 だというのに、三対の足は帰路につくどころか、石膏で固められたようにピクリとも動かなかった。――――否、動けないのだ。

新たに生まれたヒトの知恵か、未だ衰えぬ獣の本能か、獣人は目の前の“外敵”と相対した瞬間にハッキリと理解した。させられた。

比べるのも愚かしい明確な実力差。

 獣人だからとか人間だからとか、種族の違いではなく、もはやイチ生命体として強さの次元が違っていた。

 そんな敵と戦いたくないと思うのは、生物としてあまりにも当然すぎる思考。

 指先の微動が、上下に揺れる肩が、どんな些細な動きが殺し合いの口火を切るキッカケになるか分からない。

 故に動けない。

 開戦の号砲があるとするとすれば、それは獣人からではなく濃紺の法衣から。そして決着もまた、そう先の話ではないのだろう。

 風が木々を震わせ、法衣の裾をたなびかせる。その法衣が、風の流れに乗って視野から消えた。

 獣人たちがそう勘違いするのも無理はない。

 外敵、シエルは地に鼻先を擦りつけるほど体勢を低くして、獣人へと突進していたのだから。

 風に流される濃紺の法衣と、曇天になお色濃く残る蒼色の髪。

 だが、彼女の眼前には銀色の壁が鎮座する。

 皮肉にも、洵一を助けるために放った黒鍵がシエルの直進を邪魔していた。

 迂回しては意味がない。彼女の黒鍵の刀身は魔力で編まれており、消失させることも可能だが、彼女は何故か刀身を消さず、黒鍵の群れの前で直角に真上へと跳躍した。

 跳躍スピードは直進していた時とは比べものにならない。

 獣人もすぐさま空中へと視線を移すが、突進のスピードに慣れていた獣人の目はそれを追いきれなかった。

 シエルが凄まじい勢いで身体を独楽のように回転させていた、と気づいた時には既に銀光が二条、夜気を切り裂きながら獣人たちに迫っていた。

 しかし、いくら虚を衝こうが、獣人を退けた最初の攻撃に比べればあまりにも鈍重。

 ギリギリ獣人の回避能力範囲内だ。 

 一匹は後ろに。もう一匹は左へと跳ぶことで何とか黒鍵を回避した。地面に黒鍵特有の長い刀身が半ばまで突き刺さり、土砂が舞い上がる。

 寸で避けられた攻撃だけに、回避できた獣人の安堵は大きい。が、すぐさま斜に突き刺さった黒鍵から、未だ空に滞空し続ける修道女へと視線を上げ、安堵と警戒の狭間にあった獣人の瞳は驚愕に染まった。

 夜半の冷気を奔る銀光。まるで巻きなおしの映像を見ているようだ。

 異なるのは視野を埋める速さ。数秒前とは比較にならない速度だ。

 その速度を視認してから避けるには、獣人の動きはあまりに鈍重。

 後方へ跳んだ獣人は腹のど真ん中を貫かれ、あたかも鑑賞箱に留められた虫の如く、地面に張りつけられた。

 ただし、獣人を張りつけているのは虫ピンではなく、フォークを模した三つ又の槍。

 くわえて一体どんな魔術を使ったのか、三つ又の槍に貫かれた獣人の身体がガソリンをぶち撒けられたように激しく燃え上がった。火の粉が舞い、炎の中から獣人の断末魔が響く。

 かろうじて避けた一匹も、左腕の肘から先が消えていた。抉れた切断面から際限なく流れる落ちる血液。地面に広がる大きな血だまりはとても取り返しのつく量じゃない。

 遅れて獣人の鋭敏な鼻腔を満たす、肉の焼ける臭い。

 ここにきてようやく恐怖という名の灯が、凍っていた獣人の理性を溶かした。

 溶解した理性がはじき出した結論はこの場からの逃亡。獣としての本能が叫んだのは自己の生存。

 生命活動に根ざした二つの命令を忠実に実行した獣人の身体は、濃紺の法衣から一刻も早く逃げ出そうとして――――自分が動けないことに気付いた。

 さっきは戦闘を回避するために自ら動くことを禁じていた。しかし今は脳が何度動けと命令を出しても、足は一ミリも動かない。外的要因から強制的に縛られていた。

 原因は十中八九、足元で燐光を放つ複雑な模様の円陣。

円周の前後左右に一本ずつ、獣人を中心に十字を刻むように突き立った短剣は、恐らく魔術を補助する礼装なのだろう。

柄頭に付いたガラス球が強い光を帯びていた。

短剣は槍の投擲に紛れて地面へと放たれていたらしく、獣人の足元まで奔った短剣の轍が切れ目のように残っていた。

 獣人も呪縛を解こうと必死にもがくが、身体が断続的に震えるばかりで、半歩も前に踏み出せない。

 一方。真上に跳んだシエルは跳躍地点に着地すると、地面に刺さった黒鍵を両手に三本ずつ引き抜いて、左右の上空に投擲した。

 黒鍵は獣人との戦闘以来、最も速いスピードで上空を奔り抜ける。もはや大気を切り裂く音すら聞こえない。

 自然の摂理に従うのならば黒鍵はこのまま飛翔し、ほどなく弧を描きながら地面へ落下するだろう。

 しかし、それを覆すのが魔術。覆してこそ魔術師。

れえぬ( ホーミング)――――」

 

 命令ほど冷たくなく、懇願ほど憐れを誘うわけでもない。

つまり、ひたすらに平坦で抑揚のない無機質な声。

 だが、その効果は絶大だった。

 夜空を駆け、落下を待つだけだった黒鍵が摂理を超えて左右に弧を描く。何かに導かれるように、固まったまま動けない獣人に集合する。

 さらにもう三本、地面から黒鍵を引き抜くと、シエルはそのまま頭上へと放り投げた。空中で不規則に回転する黒鍵。

縦横に旋転を続ける黒鍵はやがて唐突に停止した。儚い外灯の光を受けて鈍く輝く剣先は迷いなく、獣人の額に狙いを定めている。切っ先から放たれる圧力も拳銃の銃口などとは比べものにならない。

 そうして、最後の言葉が紡がれる。

 喜びも、哀切も、憤怒さえない、当然のことをこなすように、それが日常だと言わんばかりに、全ての感情が削ぎ落ちた無色の眼光は真っ直ぐと獣人を射抜いた。

「――――鉄槌( レイン)

 

 黒鍵は担い手の声に応え、テレポートと見紛うスピードで獣人へと殺到した。

 正面左右の上空から迫る裁きの剣。まったく同じ速力で滑空する九本の光条は寸分違わず獣人を捉え、その無防備な生贄を串刺しにした。

獣人の身体から激しい炎が上がる。啼くことすら許されず、業火に包まれ地に倒れ伏す獣人。未だ激しく燃え続ける骸に、何の未練もなく踵を返したシエルの視線の先には、意識を失って仰向けに倒れた少年。

ふと気付けば、頬に当たる数を増している雨粒も、シエルの歩調を曇らせるには至らない。

少年のもとまで歩み寄り、屈みこむシエル。少年の傷の具合を確認するために、血で斑に染まったボロボロのタートルネックセーターを破って、

 

「――――」

 

 シエルは息を呑んだ。

裂傷や打撲が多く、見た目こそ重症に見えるが、深手は腹部の傷のみ。しかも幸いなことに、深手となった傷も筋繊維が密集した腹部のど真ん中。出血もさほど酷くない。

これぐらいなら簡易の治癒魔術でも充分だろう。

そう、傷自体はたいしたことはない。

シエルが息を呑んだのは傷にすらなりえないような傷。

おそらくは数年前についたであろう大小さまざまな古傷が、少年の身体を縦横無尽に横断し、重なり合い、さながら幾何学模様のようになっていた。見えてはいないが、背中や腕も同じだろう。

一体、どんな訓練を受ければ、これほど膨大な数の傷を負うことができるのか。

シエルも血の滲むような訓練を積んだし、戦闘では一瞬の油断が死に直結する。

実際に“吸血鬼から人間に戻ったモノ”の標本として教会に保存され、蘇生するたびに何度も殺された。

しかしそれ故に、彼女は“死にも勝る苦痛”を味わったことがない。

生きながらにして与えられる、想像を絶するほどの苦痛。痛みに発狂し、死を渇望し、それでも停止することを許されない、永遠に続く無間地獄の苦しみを想像することはできても、理解することは決してできない。

だが、そんなことに関係なく、シエルの胸は強い哀切に締め上げられる。

『健全な精神は、健全な肉体に宿る』

この言葉の通りなら、幾多の傷を背負った少年が、友人たちと無邪気に笑いあえているのは奇跡に近い。

少年の過去を知り、少年と同じ日常を過ごしたシエルは、そのことを誰よりも理解しているはずだった。

数年前。

彼女は自身の故郷を滅ぼした。

もちろんそれは彼女の本意ではなかったし、必死に抵抗もした。元よりその衝動は抵抗できるものでもなかったが、目の前で見知った人間が死んでいくのを、ただジッと眺めていることも出来なかった。

しかし、彼女がいくら殺したくない。と神に願っても、もがいても殺戮は止まらない。

その時の彼女はもはや別人。もはや自分の意思では呼吸一つ満足にできない状況に陥っていたのだ。

だから彼女に罪はないのか? 

確かにそこに罪はないだろう。

彼女が選ばれたのは偶然であり、自ら志願するはずもない。

でも。それでも。

瞼を閉じると蘇る血に染まった故郷。街中を埋める石畳は、人の尊厳を失った肉塊が埋め尽くし、異臭を放っている。

ほのかな恋心を懐いていた少年は顔を恐怖に歪め、呆然と呟く。

「人殺し」

見知らぬ母親は千切れた自身の手足を顧みず、骸と化した我が子に縋りながら懇願する。

「娘を返して」

つい今朝方には、笑顔で挨拶を交わしたはずのおじさんは、血のあぶくを吹きながら、あらん限りの憎悪を篭めて吐き捨てる。

「化け物め」と。

おかしな話だ。

彼女はこの人たちに一度として、殺害衝動を懐いたことはない。

喧嘩して怒られて、だけど次の日には笑いあって、この温かい日々が終わるなんて思いもしなかった。考えもしなかった。テレビで内戦のニュースを観ても、どこか現実味がなくて、非日常は遠い世界のできごとのはずだった。

はずだったのに。目前の人たちの瞳は、彼女に対する恐慌と憎悪で溢れかえっている。

 

 どうして?

 

 問いかける。逃げる背中に。向かってくる憎悪に。

 

 どうして?

 

 何度も問いかける。かつては両親だった肉塊に。

 

 どうして?

 

 何度も。何度も。

 結局答えは返ってこなかった。

 処刑人に殺された後も。

 その身に宿る魔を浄化した今も。

 自身の犯した罪すら理解できなかった。

 そうして何が悪いのか自覚できないまま罪滅ぼしを続ける間にも、記憶の紅い街は色褪せ、両親を刺し殺した時の感触も溶けていく。

 なのにどうしてか。彼女を苛む咎だけは薄れるどころか、時を重ねるたびにますます存在感を増して彼女を責めたてる。

 そして、彼女がこれほどまで橘 洵一に固執するのも、また無関係ではないはず。

 きっと彼女は――――、

 

――――あぁ、そうか。私は、許されたいのか。

 

 無いが、確かに存在する罪。

 自分と似た境遇の少年を救うことで、彼女はそれを見つけようとしているのかもしれない。

 救われないまでも、罪が明らかになれば、同時に償いかたも自然と分かるはず。

 だけど、一般の魔術師より魔術に精通している彼女だからこそ、気付いていた。この世の原則は等価交換。彼女が内に広がる闇を直視する時間を生み出すために、数多の死徒を犠牲にしたのと同じように、眼前で倒れている少年こそ彼女が“答え”を得るための代価だということを。

 

「…………」

 

その証拠に、少年を見つめる彼女の瞳は先刻までの冷たい機械の眼ではなかった。焦がれたものを手にいれられる期待感と、少年を犠牲にしている罪悪感の板ばさみに苦悩する眼は、熱をもった人間の眼だった。

と、一瞬のつもりで、かなりの時間思考に耽っていたのか、視界に映る少年の周囲に血溜りが出来始めていた。

かぶりを振ってわだかまっていた追い払い、立ち上がるシエル。両腕を突き出し、少年の真上で掌を交差させ、治癒魔術を詠唱しようと唇を開いた、その脳裏に、

 

 この物語と運命を共にする覚悟が貴女に……

 

芦屋 楓の言葉が蘇った。

 

 

 

 

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